
江戸を舞台にした時代小説を手がけるのは、私にとって初めての経験でした。迷い、悩み、行きつ戻りつしながら書いたこの『墨染(すみぞめ)の桜(さくら)』を、文春文庫で出していただけたことは大きな喜びです。
さて、迷い悩むのは私だけでなく、主人公である呉服屋の娘おりんの姿でもあります。
おりんは京の老舗呉服商「更紗屋(さらさや)」のお嬢はんとして、何不自由ない暮らしを送っていましたが、16歳の春、店がつぶれ、父を亡くし、叔父を頼って江戸へ出ることに――。ところが、浅草で江戸店(えどだな)を営んでいた叔父の店もつぶれていた――。
物語はおりんが江戸へ出るところから始まります。
私は平安・鎌倉期の古典文学に親しんできたせいもあり、その時代を小説の題材にするのを好んできました。
この度、初の江戸時代小説に挑戦するに当たり、書こうと決めたことが2つあります。
1つは、縫物や染物など「衣」に携わる女性を主人公にすること。
縫物、機織りをして男を待つ女といえば、七夕の織姫が有名ですが、古典文学でも平安版シンデレラ『落窪物語』の主人公などがそうです。
このイメージから、呉服屋の娘おりんは生まれました。ただし、舞台は江戸。女性はただ待つだけの人生を送っていたわけではないでしょう。だから、私は待つ女ではなく、自ら求めるものに向かってゆく女性を描きたかった。ここで、おりんが追い求めるのは、自分を幸せにしてくれる男ではなく、生きる術そのものなのですが……。
それが何かということは、私が書きたかったもう1つのことと関わります。
それは、王朝以来の伝統を受け継ぐ人物を登場させること。
そこで、おりんと深い関わりを持つ公家の女性、清閑寺熙姫(せいかんじ・ひろひめ)が自然と浮かびました。
清閑寺家は更紗屋の得意先で、そのため、おりんと熙姫は幼い頃から親しくしており、身分は違うものの友とも言える間柄。
おりんは『古今和歌集』や『源氏物語』などを熙姫から学び、熙姫はおりんの助言を聞き入れながら、いつも宮中で着る衣裳を選びます。
特に、熙姫がおりんに教えた「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け」という歌は、亡き人を偲ぶ歌であり、共に母を早く亡くした2人を、強い絆で結びつける歌でした。