静かな語り口である。肩ひじはることもなく、やさしい言葉で語りかけようとしている。テーマそのものが「愚の力」であるから、愚に帰ろうとする気持が、そういう形で自然ににじみ出ているのであろう。
著者は知られるように、浄土真宗本願寺派の門主という教団トップの地位にある人である。だが、その地位の高みから声を発するような姿勢は、どこにもみられない。目線はつねに低く保たれていて、ぶれることがない。低くしよう、低くしようとつとめる緊張感のようなものまでが、文章のはしばしから立ちのぼってくる。
本書で語られる「愚」の世界は、もちろん親鸞(しんらん)の生き方からみちびきだされたものだ。その親鸞の師が法然だった。当然、この二人の師弟の関係が論じられることになるのだが、そのさい著者は、法然聖人、親鸞聖人と呼んで「聖人」の敬称を用いている。これまで教団側からは、法然上人・親鸞聖人と呼んで区別立てする傾向がみられたが、著者の立ち位置がそこにないことがわかる。
社会の変化、人心の動向についても細心の注意がはらわれている。金融恐慌、エコロジー、教育問題、現代人の生き甲斐などである。さまざまな意見や立場に目くばりし、耳を傾けようとしている。が、同時にそのすべての問題をめぐって、仏教の根本的な立場から見直そうとする態度がつらぬかれている。さきにいった目線の低さにたいして、こちらの方は志をしのばせる視点の高さ、といっていいだろう。
たとえば、人間の有限性を語っている場面で、「一切衆生」があってはじめて「自分」がある、といっているような個所である。「私」があって「一切衆生」があるのではない。親鸞のいう愚もこうした生き方、考え方に発するのだといっているのである。
親鸞を語りながら、仏教の根幹にまなざしをそそいでいる。仏教を語りながら、親鸞を回路にして現代の状況を語ろうとしている。それがバランスのとれた語りのリズムを生みだしているが、それはかならずしも安全運転をねらってのことではない。なぜならその文章のはしばしで、みずから団塊の少し上の世代に属する一人であることをもらし、率直な批判の言葉をつきつけることも忘れてはいないからである。
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