その後、すぐに喜平次のほんらいの身分は武士だったことが明かされるものの、江戸から離れた上野(こうずけ)の国、いまでいう群馬県まで来て、渡しの船頭という仕事にわざわざ就いているのはなぜか、という謎が静かな緊張感とともに物語を引っ張っていく。
さらに本作で特徴的なのは、喜平次が次々と人を助ける男である点だ。川船から落ちた溝口主水という御家人や川を泳いで渡ってきた房吉という男らを船小屋へ案内し、暖を取らせている。なにより、春日屋の女主人すみえの息子・正之助および船頭の弥平が負った怪我を治療してみせた。その流れで喜平次は船頭の仕事を代わりに請け負い、春日屋とも懇意になり、ときに素人医者として治療を頼まれることも増え、村に溶け込んでいったのだ。
このように、もともと身分の高い者や優れた者が都会から離れた土地を訪れ、そこで家族のように親しく迎えてもらい、やがてその恩に報うべく、村人を助ける働きをするという話は、世界中の神話や昔話に多く見られる形である。明治以降に書かれた娯楽時代小説でいえば、股旅ものや任侠もの、もしくはある種のハードボイルド小説などにも当てはまるストーリー展開だ。それはなにも日本にかぎらず、たとえばアメリカの西部劇などでもお馴染みのストーリーであり、世界的にみても普遍的な形式なのだ。
この見方で言えば、本作の主人公が川の向こう側とこちら側に住む人たちをそれぞれ渡していく船頭の仕事とは、ちょうど西部劇でいえば、アメリカとメキシコとの間に立つ国境警備員のような立場でもある。もしくは、土地の少年を助け、その成長を見守る展開は、有名な『シェーン』の話と似ている。
そのほか、弥平という登場人物は、映画でいえば名脇役のような存在で、主人公の喜平次と丁々発止の会話を交わしており、これがじつに楽しい。一方、わざわざ江戸から訪ねてきた上士の娘ゆふとのやりとりなどは、志水辰夫らしい男女の描き方だ。迫ってくる相手には、どこかはぐらかした言葉で応じる。こうした場面は往年のハリウッド映画を彷彿とさせられるものだ。親密な者たちが交わす微妙で複雑で、しかも心に抱く真意とは相反する会話の流れをじつにうまく描いている。
ともあれ、都からの流れ者、境界の土地、そして人々、とくに女性(姫)を助け、もしくは女性の力を借りたり恋愛に落ちたりしつつ、悪との闘いに勝利する、といった話の流れは、そのまま竜退治の英雄神話と共通している。貴種流離譚と呼ばれている形式にほかならない。
このように定形の物語や普遍的な人間心理をおさえてはいるが、典型のままに終わらず際立った個性が感じられる。しっかりと現実味が与えられている。その大きな要素のひとつは、織物が盛んな土地を舞台にすえたところにあるだろう。
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