書評

監督と女優、濃厚な愛の軌跡

文: 温水 ゆかり (ライター)

『愛妻記』 (新藤兼人 著)

 先の5月、100歳の天寿を全うした不世出の映画監督&脚本家の新藤兼人。本書の原著は1995年、最愛のパートナー乙羽信子を看取ったちょうど1年後に上梓された。2人は生前、京都に比翼塚を用意した。碑に刻んだのは「天」の字、分解すれば「二人」だ。ある男と女の不屈の愛の物語。そう呼びたくなる名品である。

 男と女は共に子年生まれ。女は一回り下で、出会ったとき男には妻子があった。女は男を「センセイ」と呼び、男は女を「乙羽さん」と呼ぶ。それは終生変わらず、本書の冒頭に置かれた病室のシーンでも、まるで愛語のように口にされる。「耳もとへ口をよせて、乙羽さん、とそっと呼んだ」。妻はかそけき声で応える。「センセイが、目が見えなくなったら、仕事をやめて手をひいてあげようと思ったのに」。夫はたまらず妻に口づけする。「乙羽さんはこたえたが、舌には力がなかった」。小鳥のキスではなく、口腔で生きものを捉えようとする口づけなのである。なんという濃厚さ。乙羽は40年共に仕事をしてきた「同志」でもあった。

 夫が妻の余命を知らされたのは、この前年の夏である。肝臓がんの術後、執刀医から1年から1年半と告げられた。本人には言わない道を選ぶ。『午後の遺言状』の脚本は手術前に出来上がっていた。主演の杉村春子は乙羽が心酔している名女優。夫は退院後の妻と一緒に風呂に入ったとき、妻の股からそげてしまった肉に哀しみをおぼえる。そして不意に思いを滾らせる。

「どうしても『午後の遺言状』をやらなければ」。

 撮影の段取りを組むと、来夏を挟んで撮影が2度になる。9月のクランクアップ時、余命1年なら時間に先を越され、1年半なら滑り込む。こうして祝福でもあり葬送でもあるこの物語は、 映画の撮影と病状の悪化という時間との競争のなかに、2人で重ねた愛の記憶を揺曳させながら進んでいく。

 本書のなかでもひときわ鮮烈なのが乙羽さんの処女喪失シーンだ。著者の京都の常宿・松華楼。鴨川に面した座敷に帳がおりたころ、籐蓆に並んで寝転んでいた「わたし」は乙羽さんに接吻する。乙羽さんが「やわらかくわたしのくびを抱い」て言う。「どうぞ」。「わたしは自制心を失い、ぎこちなく結ばれた」。洗面器一杯の血を吐いて死んだ最初の妻へのレクイエム『愛妻物語』を撮った1年後のことである。主演の乙羽さんは亡妻によく似ていた。

 鴨川をわたる夜風、土堤の向こうを走る京阪電車の明滅、籐蓆の感触。著者の文章は、まるで当事者になったかのようにそれらを体感させる。乙羽さんは翌日もやって来た。このシーンの最後に置いた文章がまたいい。「『籐蓆って関西のものね』と、乙羽さんは寝転んだ」。若い女の欲望をなんとふくよかに、清潔に捉えた情景であることか。

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愛妻記
新藤兼人・著

定価:630円(税込) 発売日:2012年08月03日

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