法隆寺・薬師寺の棟梁だった西岡常一氏が小川三夫を弟子に取ったのは、中断していた法輪寺三重塔の再建が再開されたときであった。
高校を卒業し入門を頼みに行った小川に、西岡氏は「18歳では弟子入りに年がかちすぎている。それと現場がない」ことを理由に断っている。
小川は諦めきれずに、宮殿師に弟子入りし、道具使いを覚え、機会を待つ。その間も手紙を書き、近況を報告し、図面書きや解体修理の仕事を手伝っていた。そしてやっと「来てもいい」という許可がおりたのである。小川三夫21歳の時である。
小川は布団と使っていた道具を持って西岡氏の家を訪ねた。そこから現場に通い、仕事の時間以外は渡された鉋屑1枚を窓に貼り、刃物研ぎに精を出す。命じられたのは「これと同じ鉋屑が出来るように刃を研げ」の一言。
一緒に飯を食い、同じ現場で働き、同じ屋根の下で眠る。時折、歩きながら「法隆寺の五重塔は動きがあるだろう」という謎めいたことを言うだけ。振り返ってみれば、教わるという具体的なことはほとんどなかったという。
手の仕事、体で覚える仕事を教えるというのは難しい。
言葉で言っても伝わらない。頭で考えられても手や道具が動かない。師匠が言う真っ平らと自分の考える平らが違う。師匠の指先や目、感覚を写し取らなくてはならないのだが、それが出来ない。
西岡氏が現場がないから弟子に取れないと言ったのは、現場があって、そこで一緒に仕事をする機会があれば、学ぶことが出来るからだ。教えることは難しくとも、環境があり、その気があれば、学ぶことは出来る。
大工の仕事は木を使って建物を造ること。屁理屈もなければ、解説も要らない。素材を加工さえ出来れば良いのである。そのためには素材の癖を見抜き、活かさなくてはならない。堂塔を造るのに同じ木は一本とてないのである。教えようがないことを学び取る。それが修業だった。
小川は西岡氏の弟子でいる間に、自分の弟子を取った。それまでの宮大工の棟梁は集まってきた職人を使うことで造営を行った。口伝に言う。「百工あれば百念あり。それを一つに統べる、それが匠長の器量なり」「工人たちの心組みは匠長が工人への思いやり」。それが棟梁の役割だった。小川は師の仕事を見ながら、自ら弟子を育て、育てながら宮大工の仕事をやっていこうと決心した。
彼が作ったのが「鵤工舎」。ここでは親方と弟子達が共に仕事をし、一緒に飯を食い、同じ空気の元で生活する。弟子は順次入ってくる。みな自分が出来ることをし、先輩、親方の仕事を見る。手伝いながら学ぶのである。ここには言葉はない。ともに十年の時間を過ごせば、相手が何を考えているかわかる。失敗しそうなことは雰囲気で感じ取れる。
新弟子は飯を作り、掃除をする。いずれ道具が持てるようになった時を考えながら先輩の仕事を見る。それまではただただ刃物を研ぐ。
弟子達は性格も技の習得も感性も育ってきた環境もみな違う。鵤工舎では急がせない。じっくり一つ一つを習得していくのだ。学校のように及第点を取れば進級するというのではない。満足がいくまでやるのである。それを待つのが親方の仕事。80点でも90点でも千年持つ建物は維持できない。求められるのは常に精一杯の仕事。
小川は常に言う。
「弟子も材料の木もみな不揃い。不揃いのものの1個1個、一人一人を活かして総持ちで作り上げるから丈夫で美しい建物が建つ」のだと。
均一な人材、均一な物などないのに、そう考えた方が楽だから均一をいいものと考えている。それは効率優先の企業の論理だ。しかし、均一は脆い。
だから鵤工舎は常に不揃いを心がける。弟子達が育ち一人前になれば、独立させる。組織にいてくれれば効率が上がるのはわかっているが、上に人がいれば、下が育たぬ。形が出来上がってしまった組織は、そこから腐り始める。人を頼り、マニュアルを作れば、それで良いという判断が生ずる。人は安きに流れたがる。
人も組織も生もの。腐らせないためには常に不揃いがいいのだと。
法隆寺創建時代には縦引きの鋸も台鉋もなかった。木を楔で割って材を作り、柱や梁や板、斗栱を作っていた。それ故一つとして同じ物はなかった。木の性質にそって作られた不揃いの部材をうまく組み合わせたからこそ千四百年の時代を超えて建ち続けているのだ。不揃いの総持ち、強さと美しさの根源である。それを語る小川の論理は、現代の組織や教育への批判でもある。小川の話を聞きながらそう思った。
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