――しかも璋子は、血のつながりこそないものの、その当時もっとも寵愛していた祇園の女御の養女です。添い寝して戯れているうちに、「ごく自然に男と女の関係にすすまれたようである」と……。
渡辺 それまで法皇はさまざまな女遊びを重ねていましたが、璋子に会い、62歳にして初めて「本当の純愛」を知った。「女好きが純愛なんかするわけがない」という人もいますが、男はどんなに遊んでいても、どこかで純愛に入れ込む生き物なんです。法皇の場合は、それがたまたま60を過ぎてから訪れた、というだけのことで。また、ここでもう一点、大切なのは、二人が自然に結ばれた、ということ。支配する、支配される、つまり「おれの女になれ」といったような上下関係や命令形とは関係なく、自然に結ばれていく愛こそが純愛といっていい。
――雑誌連載時から評判になったのが、法皇が夜、蛍の入った竹籠を、薄絹一枚を着て眠っている璋子の秘所にかざし、蛍の光に照らされたその美しさに魅了される、というくだりです。璋子の「ほうおうさまぁ……」という呼びかけも、もうとにかくエロティックで……。女性読者の心にも深く残るシーンとなりました。
渡辺 何歳になっても、ああした少年のような好奇心は男の中にある。まあ、これは男というか、雄の本能の原点でしょうね。また、愛する女性を自分の色に染めていく、育てていくという喜びもまた、雄の本能の中心にある。それが璋子のような、幼さと成熟を併せ持つ、真っ白いキャンバスのような女性であれば、なおさら高まるわけで。
――そして白河法皇は、愛する璋子をこともあろうに自分の孫である鳥羽天皇に嫁がせます。……さらにアンモラルな状況になるわけですね。
渡辺 中宮となり、いずれ帝となる御子を生むこと。それが、平安朝を生きる女性にとっては最高の栄誉であった。ならば、璋子という愛する女性にもそうなってほしい――。 とはいえ、法皇ほどの人間であれば、自分が今、やろうとしていることの異常さはわかっていたはずです。それでも、その気持ちを、欲望を抑えようとはしなかった。やはりこの行動も、法皇のくるおしいほどの純愛が背景にあってこそのことで。
――鳥羽天皇は、法皇を畏怖しながらも、后となった璋子を愛そうとします。そして作品は、法皇、天皇、璋子をめぐる複雑な恋愛ドラマの様相を呈していきます。
渡辺 このあたりの性をめぐる物語は、老年に差しかかった男性や、これから幾多の女性を抱くであろう若者にぜひ読んでもらいたいところです。セックスというものは、ただ若くて元気ならいい、挿入すればいい、というものではない。法皇は晩年になると性的機能が減退し、挿入ができなくなっていきます。しかし、璋子の記憶の中では、天皇の若さをストレートにぶつけてくるような性行為よりも、法皇の優しく執拗な愛撫の方がはるかに末永く深く、身体の奥に染みこんで残っていく。女性が何を求めているのか、性的に満ち足りている状態はどこからくるのか……。老年男性には「まだまだこれから」と思ってほしいし、若者たちには「挿入だけがセックスのすべてじゃない」ことを知ってほしいですね。