
完璧な人間というのは、なんて面白くないのだろうと思う。
まず申し上げたいのは、私が津本先生の作品をとやかく言えるほどの知識、感性、そして人生経験に足りた人間ではないということです。
そして、私は女です。
私は、女は根本的に歴史を好きになりきれない、と思っているところがあるようです。
歴史は男の世界。
女は前へ前へとしゃしゃり出るものではない、と歴史を好きになればなるほど思います。
未熟な女は、いかんせん気が強く、往往にして口が達者なものです。
しかし未熟な女の中でその例に漏れてしまった種類の人間がいて(気が強く口が達者なのは変わらないが、そこに属していることへの違和感を内包しているという意)、その一つの種類が「歴史を好きになった女」なのではないかと思っているのです。
恐らくそんな矛盾性を持った私のような女が、歴史小説の文庫巻末エッセイを引き受けてしまう身の程知らずなのでしょう。
表題作にもなっている「龍馬の油断」。
その語感に、何とも言い得ぬ手厳しさが滲み出ているのを感じました。
歴史の大スター、坂本龍馬。
無論、大政奉還が成される頃と言えば、龍馬が自分の命を狙う者の目に気づいていたのは明らかです。
しかしスターとて人間。毎日毎日、24時間自分の命のことを考えていられるほど、強くもありません。一分の隙もない緊張感を絶えず持っていたら、神経がおかしくなって壊れてしまうに違いありませんから。
それなのに何故、油断という一刀両断するとも言える表現を使われたのか。
そこが不思議でした。
坂本龍馬は、これまで多くの人に愛されてきました。
それが故に、贔屓もされてきた人。
つまり、日本人の理想を投影するが如くして美化され続けてきた人。また、それに値する面白い人物でした。
だのにどうしても、龍馬にだけ愛がないのではないのかと思ってしまうくらいのさっぱりとした読後感。
龍馬の愛嬌を敢えて書かないことへ、何か意味があるのだろうかと、余計な深読みをしてしまうくらいでした。
ところが津本先生が「油断」という表現を使われたのは、どうやら手厳しいだけではないようです。