読者の感情を誘導したくない
――それでは『ギッちょん』のことをうかがいます。まず山下さんの小説の特徴について、感想を言わせてください。古代の石碑みたいだなって思うんです。前からだけではなく後ろからも斜めからも眺めることが出来て、読者は勝手に想像を巡らせてしまう。
山下 ああ、たとえば演劇では「こう観て欲しい」というのが通用しないんです。ぼくがどんな熱演をしたって、観客はぼくの鼻の穴をのぞいているかもしれない。それを禁止は出来ないんです。また、ぼく自身、芝居をつくる時に観客を誘導するような部分は、なるべく少なくしたいという気持ちがありました。完全になくすことは出来ないんです、何かを形にした瞬間に。だけど最小限にしたい。それは小説でも同じで、ある情景を切り取ること自体に作者の意図は入っているんですけど、読者の感情を誘導することはなるべく少なくしたい。どう受け取ってもらっても構わない、ということでもないんですけど。
――表題作「ギッちょん」には主人公の幼馴染みの、足の不自由な男の子が登場します。「ギッちょんは右足が内側に大きくねじれている。だから歩くときからだが大きく上下する。急いで歩いているときのギッちょんはわたしにはとても楽しそうに見えた。それはだけど川を渡るには少し不便だ」。この文章には驚嘆しました。あざけりも、差別もない。
山下 ぼくには子供の頃の強烈な記憶があるんです。足のわるい子の歩き方の真似をしたんですよ、ぼくが。そしたら親戚のおばちゃんに物凄く叱られた。ぼくは、何故叱られるのかが分からない。家に帰って父に話したら、父も「何で怒るんかな」って(笑)。もしぼくが真似したのが足のわるくない子の歩き方だったら叱られないわけでしょう。今になって思えば「触れるな」ということですよね。
別に障害がなくても、どの人もたいがい奇妙な歩き方をしているんですよ。劇をやっていたとき、どれだけ、役者の素の歩き方をそのままやらせるか、ということを考えていた。誰も見ていないみたいに歩けるか、って。それだけで「見物」になるんです。それだけが面白い。だからぼくは、面白くない役者というか、人というのを見たことがない。見るに値しない人なんかいない。ただ、従来の演技体系では、奇妙な歩き方をいかに「美しく歩く」ように訓練するか、はっきりしないしゃべり方をどう「滑舌よく」していくか、ということに重きが置かれている。そうやって、普段面白かったひとがどんどん制御されて面白くなくなっていくんですよ。
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