ゴミ以前とゴミ以降
――「ギッちょん」のなかで、主人公が子供のころ母親にバス停で置き去りにされ、泣くシーンがあります。そこで「排気ガスは良いにおいだ」という文が出てきます。また、40代になってホームレスになった主人公が、架空の子育てをするシーンで「ノボル(架空の息子)は何かというとすぐに泣いた。雨が降ると泣いて、川の流れる音がいつもと少し違うと泣いて、ゴミを捨てるたびにゴミがかわいそうだと泣いて」とあります。山下さんの作品には、汚いとされているもの、不用、無駄とされているものに対する共感というか、同情があるように思うのですが。
山下 というか、ゴミって、最初はそれを欲しいと思って買ったものだったりするじゃないですか。もともとは愛着を持っていたものが、どこかからゴミに変わるわけじゃないですか。子供のなかでは未分化だと思うんです。ゴミ以前とゴミ以降が。
――子供の視点ということでいえば、山下さんの小説には大きさに関する特徴的な表現がでてきます。「ギッちょん」では主人公が30代でアメリカを放浪した頃出会ったアメリカ人の描写で「ジョンは大きなハンバーガーを四つ食べて、洗面器ぐらいの入れ物に入ったサラダを二つ食べて、いちばん大きなサイズのフライドポテトを食べて、わたしとカシワダの残したフライドポテトも食べて、フライドチキンを五個食べて、猛烈に甘いカップケーキを三つ食べた」とあります。これは、子供の持つ「大きさ」への感覚だと思いました。
山下 ぼく、大きさを崇拝していますから(笑)。「悲しみは大きさに比例する」と思っているんです。うちの猫が死んだ時に動物霊園で焼いてもらったんですけど、猫や小型犬の飼い主たちが小さな箱を持って待っているなかに、大きな段ボールかかえてやってきた人がいた。ラブラドール・レトリーバー(笑)。こりゃ、悲しいぞ、と。
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