インタビューほか

欲望の鍵が開く世界

「本の話」編集部

『ありふれた愛じゃない』 (村山由佳 著)

クジラの姿を借りた神

――さて、物語の中盤、貴史が真奈を追いかけてタヒチへ到着して以降、生命力に溢れて本能的に生きる人々の暮らすこのタヒチの地で、真奈は穏やかな今カレか奔放な元カレか、ふたりのあいだで揺れ動いていきます。最大の読みどころである恋の行方は本編で楽しんで頂きたいですが、単にどちらの男を選ぶかということではなく、真奈の心がどんどんと解き放たれ、自立していくさまが読んでいてとても爽快でした。

村山 日本人の女性はいくつになっても、いい子でいないといけないとか、本当の自分を探さなければいけないというストレスにとらわれがちです。でも、実は大人の分別などというものは、往々にして単なる世間体のことだったりする。そうではない、個人の幸せを追求することの強さを私は感じています。公約数的な幸せを求めていて、ふとそうでない麻薬みたいな喜びに触れたときに、そちらへ持っていかれてしまう人が、なかにはいるんです。欲望の扉の鍵が開く瞬間になんとしてもその扉をがちがちに押さえるか、いきおいに任せて開けてしまうか、それはその人次第でしょうけどね。

――単行本にまとめるにあたって、大きく書き直された箇所があります。クジラの登場するシーンです。この場面を描くために、昨秋、タヒチの属する仏領ポリネシアの中でも南の辺境に位置するルルツ島を取材されました。毎年、安全な子育ての場を求めたザトウクジラが訪れることで有名な島です。

村山 死ぬまでに経験したいことがいくつかあって、「クジラと泳ぐこと」は、そのうちのひとつでした。イルカとはこれまでに何度か泳いだことがあるのですが、フリーダイバーのジャック・マイヨールが残した言葉に、「イルカは海の親友だがクジラと泳いだときは神を見た気がした」という意味のものがあって、その言葉に触れたときに鳥肌が立ちました。それ以来、ずっと漠然とその瞬間を夢見てきたんです。

 タヒチに行くにあたってクジラが訪れる島があると聞き、いよいよ時が満ちたか、これは自ら体験して小説に書くしかないだろうと思いが強まりました。取材するうちに、精霊や神々の香気を意味する〈マナ〉という神秘的な力への信仰がこの地にあることを知り、その信仰とクジラとが頭の中で結びつきました。ルルツ島では実際に海中で10メートルほどの距離までクジラに近づいて、彼らの歌声も聴くことができて、大きな夢が叶った思いです。そこで得た本来言葉にならない感動を、なんとか言葉に「翻訳」しようと苦心する中で、「これこそ物書きという仕事だ」と初心に立ち返る思いもしました。クジラの姿を借りた神と出会ったというきわめて特殊で個人的な体験が、読者の方々に伝わる普遍的なものに翻訳できていればうれしいです。

ありふれた愛じゃない
村山由佳・著

定価:1,500円+税 発売日:2014年03月28日

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