読み始めたら、巻を措(お)く能(あた)わず、一気に読了した。六十四年前に広島の原爆の二次被爆により、わずか十九歳の短かく哀しい生涯を閉じた女高師専攻科(現・お茶の水女子大)の粟屋康子(あわややすこ)さんが主人公。彼女の日記と手紙と生存者の証言を綴りあわせた著者、門田隆将氏の筆力も大したものだが、康子さんの戦渦(せんか)の記録が、評者の戦時体験に重なり合うところがとても多く、ひきこまれるように読み進んだ。
粟屋康子さんの父仙吉(せんきち)氏は、昭和八年大阪で起きた「ゴー・ストップ事件」の警察側当事者だった骨太の内務官僚。巡査が信号無視をした兵隊を取締ったことから軍部が「天皇の統帥権(とうすいけん)の干犯だ」と騒ぎ出し、陸軍対内務省の抗争にまで発展し、昭和天皇の裁定で収まった大事件だ。評者の父弘雄は、近衛公のブレインとして日独伊三国同盟や対米英戦争に強く反対して弾圧をうけた元九大教授。二男三女の家族構成も同じ健全な中産階級。康子さんは評者の姉妹も通った第三高女の先輩。校庭の隣りの家で生れ育った評者は、垣根越しに女学生たちの体操をみていた小学生。きっとその中の一人が康子さんだったのだろう。勤労動員や疎開も共通体験だ。「学徒動員の歌」の歌詞の「君は鍬(くわ)とれ我は鎚(つち)」という一節そのまま。康子さんは北区十条の陸軍造兵廠で(ぞうへいしょう)中央大予科の学生らと共に高射砲弾の信管をつくる「鎚」をとり、評者は秩父の山奥で「鍬」をとって松根油づくりに邁進していた。東京空襲の詳細な記録を戦時日記につけていたことも同じ。世田谷下馬の粟屋家を焼夷弾攻撃から守り抜いた弟、忍(しのぶ)君が「バンザーイ、又残った」と喚声をあげる件(くだ)りがあるが、昭和二十年五月二十四日、二十五日と連夜続いた大空襲の夜、評者は下馬からすぐ近くの野沢で消火活動をしてわが家を守り抜いた。「又残った」に意味がある。
明治生れの父母の薫陶(くんとう)をうけた昭和一桁には、共通の価値観がある。昭和二十三年国会決議で排除された「教育勅語」がそれだ。
「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信ジ……一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ……」
康子さんは、これらの昔の日本人の徳目を体現した才媛。父の転勤につれて転校した先のどこの学校でも首席。ピアノ、書道、和歌に秀で、勤労動員の職場でもすぐれたリーダーシップで第四区隊をトップにした。娼婦型が好きな人は別だが、日本の男性が望む良妻賢母の典型ともいうべき日本女性だった。その日記には「いつの時代も若い人は美しい」、「しかし今の私達ほど美しくはなかった」とモンペに鉢巻きという姿なのに、素晴しい青春謳歌の言葉を残している。外出するあてもないのに独り、家で正月の和服を着る乙女心が憐れだ。