昭和二十年(一九四五年)九月十一日。東京進駐式を終えたマッカーサー元帥を帝国ホテルで迎え、彼に指名されてそのまま東京の焼け野原を車で運転して案内したのが、犬丸徹三支配人だった。彼の正確な案内で、焼け残った第一生命ビルと明治生命ビルのGHQによる接収が決まった。
犬丸徹三は明治二十年(一八八七年)生まれ。東京高商(現一橋大学)卒業後、中国に渡り、満鉄のヤマトホテルに就職する。しかし、同ホテルを退職し、上海のバリントンホテルでコックとして働く。さらにロンドンにわたりホテルで雑用係りとなる。ここでの苦労が認められ、コック見習いとなり、名門のクラリッジスホテルにコックとして雇われる。
大正六年(一九一七年)、今度はニューヨークにわたり、リッツカールトンホテルでコックとなる。さらにアストリアホテルに勤務するなど経験を積んでいった。
このころには、犬丸の名前は日本でも知れ渡り、大正八年、帝国ホテル副支配人として呼ばれる。帝国ホテルは、大倉喜八郎、渋沢栄一らを中心に明治二十年に設立され、大正時代に、アメリカの建築家、フランク・ロイド・ライトの設計によって新しい建物が建設された。このときに起用されたのが、犬丸で、大正十二年には、支配人となる。
昭和に入り、政府が不況打開で貿易外の外貨獲得のために施した観光振興政策により、名古屋観光、川奈、赤倉観光、志賀高原、雲仙観光、阿蘇観光など日本各地に観光ホテルが林立した。このとき犬丸はいずれの計画にも参加する。自ら手塩にかけた人材を支配人やコック長として送りこみ、壮大な人脈を築きあげた。
終戦直後の昭和二十年十二月、帝国ホテル社長となる。昭和二十七年、占領解除となるや、第一新館の建設に着工、まだ目新しかった冷房設備を整えた。昭和三十一年には第二新館を建設。北欧料理のスモーガスボードにヒントを得て、後に総料理長となる村上信夫と二人三脚で食べ放題のバイキング料理を考案し、人気を集めた。昭和三十八年、東京オリンピックを翌年に控え、観光政策審議会会長代理となる。世界に通用するホテルを築き上げた犬丸は確固たる信念の持ち主だった。
「ホテル経営者の勉強は、超一流のゼイタクを身につけることから始まる。上等な食事、住居、洋服の味を知らなかったら下等なものの見分けがつかない」(「週刊文春」昭和三十四年六月十五日号「世界のホテル王を狙う野武士」より)
昭和五十六年没。写真は四十六年撮影。
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