文化三(一八〇六)年、大坂高津の儒学者の息子、真原(まはら)善四郎が、不惑を間近に控えながら国学に憧れて、親を欺き上京する。加藤千蔭(ちかげ)の門下に入るが、周囲に馴染めず、ただ一人「青猫」という仇名の同年の男を親友として、当時は人跡寂しい麻布永坂に居を構える。そこへ訪れてきたのが、ゆずり葉である。積極的に誘惑する彼女の魔性に、あっけなく善四郎は囚われるのだが、さらにもう一人の女がやってくる。旗本の娘で「初」と名乗る若い処女だった。こちらもやけに積極的で、やはり善四郎は脆(もろ)くも惹かれてしまい、臥所(ふしど)に紅葉を散らしてしまう。
おいしい話すぎる。なぜ大坂からのこのこ江戸へやってきた、いい年の道楽息子が、いきなりこんなに美女にもてるのか。その因縁を解き明かし、長年の執着を晴らすプロセスが、本書のストーリーの要である。それをここで書くのは野暮というものだが、一つだけ明かせば、初は死者の幽霊なのである。女狐と幽霊。その双方に惚れられる純情な学徒の物語。祟(たた)られるのではなく、男もまた彼女らと深く情を通じる風雅な艶笑を兼備えた怪異譚――。こうなると『麻布怪談』を名乗りながら、陰々滅々たる恨めしやの江戸の怪談というよりは、中国の『聊斎志異(りょうさいしい)』にむしろ近しい。中国だと、科挙を目指して勉強する青年のもとに美しい女の狐狸幽鬼が訪ね来るといった趣向になるのだが、それをみごとに江戸時代の怪談話に移し替えたのがこの作品といえるだろう。もとより『四谷怪談』についても『聊斎志異』についても、すでに一書を著している作者は、本書の準備を怠りなく重ねてきたといわなければならない。
二人の女(片方は狐ながら)の愛を一身に受け、また周囲にも支えられて、善四郎の数奇な人生は悉(ことごと)く丸く収まり、学問の志も見事に貫くことができた。まこと夢のように幸福な一生である。しかし彼は自分の人生について、こんな言葉を口にしている。「若い頃、自分の人生はただひたすらに退屈だった。(中略)どこへいっても退屈の荒野が広がっていることに違いはなかった」。「なんでみんな俺から去っていくんだ。なんで気がついたらいつもひとりなんだ」。
一生好きなことをして暮した善四郎の人生は、波乱万丈のようでいて、じつはいつも退屈と孤独が背中合わせだったとも見える。汗して働くことなく風雅を貫いた好事家(こうずか)の背負う巨大な虚無が、本書の読後に立ち上がるような気がする。狐も幽霊も、その虚無に惹かれてやってきたのかもしれない。それで好し、と作者は巨大な虚無を呑みこんで恬淡(てんたん)としている。怪異譚の愉悦に留まらない本書の「粋」は、そこから来ているのではあるまいか。
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