傾国子女

第三回

文: 島田 雅彦

千春、人生を語りはじめる

 父は日本画家でした。絵師という響きの方が似合う人でした。美人画を得意としていて、お金持ちの旦那衆の注文を受け、その妻や愛人、娘をモデルにした絵を描いていました。画壇に認められようとか、オークションで高値をつけてもらおうとかそんな野心はなく、町の一介の絵師にとどまり、美女と向き合っていたいというような人でした。

 私の絵もたくさん描いてくれました。「CHIHARU Vol. 1」とか「CHIHARU Vol. 2」と表書きされたスケッチブックには母に抱かれた私、這い這いをする私、公園で遊ぶ私、水浴びをする私、眠る私などが鉛筆やパステル、墨で描かれていて、そのどれもが私への愛にあふれている……ように見えました。

 我が家の家計は逼迫していて、母のパートで何とかやりくりしていました。豊かではなかったけれど、親子三人暮らしてゆくには充分な収入があるはずでした。それでも家計のやりくりに苦労していたのは、母が浪費家だったからです。夕飯のおかずがワカメの味噌汁とキャベツ炒めだけだったこともあります。それでも父は晩酌を欠かしませんでした。「酒が切れると、筆が荒れる」といって、母を怒らせていました。

 母のヒステリーに二十八日間の周期があることにようやく気付いた父は、その日が近づくと、外出の口実を作り、家を空けるようになりました。憎しみをぶつける相手がいなくなると、その矛先は私に向かいます。私も父に倣い、母の呪詛のコトバを右から左に聞き流していたので、彼女が何を恨み、呪っていたのか、よく覚えていません。ただ、一言、母が私に向けて呟いたコトバだけはよく覚えています。

──あんたは私と同じ目に遭うんだ。あんな男になついているのだから、不幸になるのは目に見えている。

 母親だからといって、娘の幸福を願うとは限らないものだ、とこの時、私は悟りました。母は自分のことを、父に人生を台無しにされた犠牲者だと思っていて、自分が舐めた辛酸を娘にも舐めさせたがっていたのかもしれません。私が父に溺愛されているのも、母は気に入らなかったようです。私が生まれたのを境に、夫婦仲が冷めきったことを根に持っていたのでしょう。

 ある日、父は学校帰りの私を待ち伏せしていて、二人で食事に行こうといいました。そこは父の収入には不釣り合いな、神楽坂の高級寿司店でしたが、白木のカウンターに座った父に板前は「お久しぶりです」と挨拶していました。父は私を「娘です」と紹介すると、カウンターに座っていた先客が私を露骨に見つめ、寿司のネタを褒める口調で「これはいける」と呟いたのを覚えています。

「好きなものを食べなさい」と父はいいました。さび抜き、母抜きでお寿司を食べるのに一抹の疚しさはあったけれども、丁寧に握られた寿司のおいしさにその疚しさも消えてしまいました。父はお酒を飲みながら、私にあれこれ質問をしました。学校は楽しいか、ピアノの練習はちゃんとしているか、クラスに好きな子はいるか、将来は何になりたいか……どれも娘のことをよくわかっていない父親らしいおざなりな質問でしたが、私は皮肉を差し挟んだりせず、素直に答えました。

 学校は体育の時間以外は楽しい。ピアノは毎日欠かさず弾いている。好きな子はいない。将来は病気の人や貧しい人を助ける仕事がしたい。

 私の答えを隣の客に聞かせたがっているようでもありました。

──千春はパパに何か聞いておきたいことはないか?

 父は蝦蛄の爪に甘ダレをかけたものを私にも勧めながら、こんな質問もしました。

──なぜママは定期的にパパを責めるの? 愛し合って結婚したのに、何を後悔してるんだろう?

 私がそう訊ねると、父は「あっは」と笑い、「ママは結婚しても、しなくても、後悔していただろう」といいました。それを聞いていた隣の人も笑いました。

 父の絵がもう少し売れていれば、母も上機嫌だったのでしょうが、母の不満は家計のこともさることながら、家の外での父の振る舞いに向けられていました。時々、父は仕事で家を留守にしましたが、母は父が別の女の元に通っていると疑っていました。母が「どこに行ってたの?」と追及しても、父は悪びれることもなく、「山」とか「海」とか「墓参り」などと答えていました。

──パパの浮気が原因じゃないの?

 私がそう問い詰めると、「浮気なんてしていないよ。いつだって本気だ」とそらとぼけます。母がヒステリーを起こす理由もわからないではありませんでしたが、そんな父の開き直った態度が私は好きでした。

──責める相手がいるだけ幸せだよ。でも、ママをもっと幸せにするには、パパが身を引いた方がいいだろう。そのうちママは別の人と人生をやり直す。

──もしそうなったら、私はパパと暮らすの?

──いや、パパは消える。千春はママと暮らし、ママの恋人をパパと呼ぶことになる。

──できないよ。パパは一人だけだから。

 父はそれをいわせたくて、わざわざそんな話題を振ったのでしょう。父も愛する一人娘を置き去りにしたくはないはずですから。

 でも、この時、父は家族から逃走する計画を密かに練っていたのでした。父はさりげなく、私にだけその秘密の計画を予告したのです。

【次ページ】父と花岡が交わした密約

傾国子女

島田雅彦・著

定価:1680円(税込) 発売日:2013年1月11日

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