『広辞苑』には、「きずな【絆・紲】(1)馬・犬・鷹など、動物をつなぎとめる綱。(2)断つにしのびない恩愛。離れがたい情実。ほだし。係累。繋縛」とある。つまりは「家畜を繋いでおく綱」であり、しがらみ、束縛という意味で、それが「人と人との結びつき、支えあい、助けあい」とされるようになったのは最近のことだともいわれる。たしかに「夫婦の絆」とか「親子の絆」といえば(ペットとのそれもあるか)、それがあれば「理解しあえる」ということになっていて、ほとんど疑わないがはたしてそうか。それは幻想ではないかと、本書で饒舌と思われかねないほど執拗に、藤田宜永は追究する。
それはとりもなおさず、法の引いた社会の境界線への疑問である。
どこかでわたしは、藤田宜永が「ミステリなのかなんなのかわからない、家族の話みたいな“ノンジャンル”ってダメみたい。日本人はきちっとわけるのが好きみたい」と語っているのをみかけたことがある。その「家族の話みたいな“ノンジャンル”」のミステリーで、瑶子を追う岩佐は、殺された光野の勤務していた病院も芝草の病院も、大阪に本拠をおく医療法人・露元会に買い取られていること、露元会は他の病院で手形詐欺事件で捜査されていることを知る。ならば瑶子の逃亡は、光野の死の真相を暴き、自分の潔白を証明するためではあるまいか。東京の組からの命令で猪野金蔵のダチの息子が瑶子を追っているのも……。
わたしは、本書を読んでいて、ふと一九世紀ロシアのアナキズム思想家クロポトキンが、その主著『相互扶助論』で、ダーウィンが『種の起源』で「科学として確立した進化の一要因としての生存競争という概念」は、「個人や民族や種や社会の発展を求める持続的行為――敵対する環境に対する闘争として理解」され、すべて人間の歴史は「生存競争」とされたが、「競争」ではなく「相互扶助」の歴史もある。支配のための闘争のまったくない歴史がある、と主張しているのを思い出した。冒頭でふれた北欧ミステリーや「絆」という言葉の流行に触発されて、いまぐしゃぐしゃになっている秩序の境界線の向こうには、はたしてなにがあるのかを知りたいわたしは、この“未完”のミステリーを完結させたとき、藤田宜永がそこに何を見出しているだろうか、「相互扶助」はその視線にはいっているだろうか、とわくわくしながら待っているのである。
「ほどほどに売れている、ローリスク&ローリターン作家」なんぞとヘンな余裕をかまさないで、藤田宜永よ、「ハイリスク&ハイリターン作家」に変身しておくれ。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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