旅がずっと苦手だったが、さる旅の達人の一言で急に気が楽になった経験がある。
「別に無理して何かを感じなくてもいいんですよ。日常の延長ですから」
お金も時間もかけて旅に出たからには、大きな感動や価値観の変化をお土産にして帰路につかなければならない、というプレッシャーが、私をおっくうがらせていたのかもしれない。肩の力を抜いてふらりと足を運んだ方が、ニュートラルな視点を保てる分、景色や人が冴え冴えと飛び込んでくるものだ。
酒井順子さんもまた、どんなジャンルであれ気負わず普段のままの自分で踏み込んだ方が見えるものが多いといつも教えてくれる、優れた案内人だ。例えば、酒井作品をきっかけに私は鉄道に目覚めている。男性のように制覇したり収集したりという趣味はない、ただ鉄道の揺れを味わいうとうとまどろんでいたい、という酒井さんのスタンスには、そうか、そんな風に楽しんでもいいんだ、とぱっと目が覚める思いがしたものだ。同時に、趣味にするからにはストイックな探求をしないと駄目なんじゃないか、と男性主導のマッチョな価値観にしばられている自分に気付き、ぎくりともさせられる。どんな風に振る舞ってもいい趣味の世界にまで、「ねばならぬ」を持ち込んでしまうせせこましさは一体どこからくるのだろうか。
どんなことでも自分のフィールドにするすると引き寄せて気負わず楽しんでしまう達人、酒井さんが歌舞伎について書いた本作もまた、彼女らしい伸びやかな語り口に、私のような知識ゼロの人間でも舞台に足を運びたくなること受け合いだ。まず、女形にばかり目がいく、舞台が地味だとつい寝てしまう、どんな名作であれ人権を無視した筋書きにはひどいと憤慨してしまう、などのあっけらかんとした記述に安心してしまう。江戸時代から脈々と続く伝統芸能を前にしても、酒井さんは一貫して「こう思わなければいけないんじゃないか」から解放されている。歌舞伎では不幸な女性が描かれることが多く、真面目に受け取るとついフラストレーションが溜まるものだが、酒井さんの見識ははるか上を軽やかに跳躍している。「伽羅(めいぼく)先代萩」の政岡や「摂州合邦辻」の玉手御前の自己犠牲精神にもそこはかとない陶酔を読み取って「セルフうっとり」と面白がってしまうし、「曾根崎心中」も実はお初が徳兵衛をたくみにリードしていることに気付いて男への所有欲を満たしてこの世を去ったのではないかと解釈。はかなく散る命や強いられる我慢を「哀れむべきもの」ととらえず、そこに女の意地やしたたかさを自然に見つけ出してしまう。そして男性戯作者達、ひいては江戸の男達の抱く女への恐れまで読み取っていく様はもう痛快と言ってもいい。そうそう、ここまで女性が悲惨に描かれるのは、そこに男性の「こうあって欲しい」「こうであっては困る」が織り込まれているからなのだ。こういった解釈ができるのは、膨大な知識に裏打ちされながらも、著者の同性を愛しげに見つめる中心線がぶれないからだろう。
「追う女」の章の「彼女達は『他にすることがない』からこそ、追っているのでしょう」の一文は特にはっとさせられる。女性のほとんどに自活の手段のない時代、確かに情熱を傾けることといえば恋愛くらいなのだ。男なんかで身を滅ぼしてしまう愚かなヒロイン達が途端に身近に感じられてくる。同時に、やることが多すぎて心をまるで使っていない我々の方が哀れなんじゃないのかな、ともふと思う。舞台に立つ彼女達は確かにこちらとも地続きの存在なのだ。
終章では、昔ながらの芝居小屋ともいえる、明治43年に誕生した秋田県鹿角郡小坂町の「康楽館」を著者は訪れる。地元の人々の暮らしの延長にある舞台を前にして、客と役者が一体化する小屋がまるで「呼吸する有機体」のようだと評する。そして、江戸時代に思いを馳せながら、浮き浮きした気分のまま温泉に向かっていくのだ。フットワークが軽く、ひょうひょうとした著者の後ろ姿が目に浮かぶよう。こんな風にいつも身一つで心を開き、好奇心の赴くままに新しい世界に次々に飛び込めたら、楽しいだろう、と素直にうらやましく思う。気付けば、いつものようにまた1つ、酒井さんに新しい世界の扉を押してもらっているのだ。
わからないものは無理して理解したふりをしない。敷居の高さに気後れしたりもしない。ヒロインの「可哀想」に支配されて、目を曇らせたりはしない。なぜって歌舞伎は我々のようなごく普通の町人がわいわい楽しむためのものだ。酒井さんの視線は自由であると同時に、いつだって我々の中に流れる普遍の感情を呼び覚ましてくれるのだ。