もう一つは、「かたり」の危うさへの感覚だ。「かたり」という語は、だれもが知るように、語りと騙りという対立する意味を内蔵している。その最たるものが記憶だ。記憶される出来事がかつてしかとあって、それを思い出したり忘れたりするのではない。記憶には何かひっかかるもの、突き刺してくるものとそうでないものという、言ってみれば面(つら)があって、それに沿って語っているうち、それもひっかかるところ、突き刺してくるところを際立たせて語るうちに、面が別の面立ちをなすようになる。そしてそうした語りを幾度もくりかえすうち、その面立ちが固定される。そう、面が厚くなってくるのだ。
語るとは騙ることでもあるから、語りのなかで過去のほんのちょっとした傷がぐんぐん膨らんで、あらゆる過去の体験がその傷を軸に並べなおされもする。そうなればひとは「悲劇の主人公」だ。が、反対にいい偽造もある。別れたひと、亡くしたひとについては、隔たりが生まれるから、じかに向き合っていたときの確執やこだわりがしだいに消えてゆく。だからそのひとのいい面だけが残るというかたちで、そのひとの像が整形されてゆく。もっとも逆に、怨みを軸に整形されることもあって、その意味ではなかなかに怖い。
この二つをこの作品集の語り手は慎重に封じ込めようとする。記憶はつねに上書きされる可能性にさらされており、「言葉にしているうちに過去がまたもこの場で相手に合わせて上書きされ、変質してしまい」がちである。だから、「都合よくまとめられた青春物語」を口にしかけるじぶんに過敏に反応するし、会話のなかでも「だめだよ。他人の物語を作り変えようとしちゃあ」と戒める。記者を相手に作家として話しているときも、語るたびに〈わたし〉という語る主体からずんずん離れてゆくじぶんを意識し、話がうまくまとまってしまうと「また一つ、こざかしい諒解を重ねる」とみずからを揶揄する。
「かたる」がなぜ(真の)語りと(偽の)騙りに分岐するのかと問うのではなく、語りも騙りも自己を二重にするそういう「かたり」のわざとして通約的にとらえることができるとしたのは、『かたり──物語の文法』(一九九〇年)の坂部恵だ。「かたり」には、「語るに落ちる」と言われることがあるように、きちんとした起承転結を外さないという誠実とともに、「誰某をかたる」というふうに擬装や欺瞞も含まれている。いずれにせよ、ここでは自己の二重化がなされており、この厚さが「かたり」をたんなる「はなし」と別けるし、また神々とか亡霊といった超越的なものからの垂直のお告げや宣(のり)とも別ける。だからここで、この作品集が私小説なのかフィクションなのかを問うのは意味がない。むしろ、わたしの、あるいはわたしのかかわりあったひとたちの、輪郭の不明、あるいは得体の知れなさをうかがうためにこそ、自己の二重化という作業があると言ったほうがいい。
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