じぶんにとっては「小説とは何かを考えること」が小説で、「書くとは何かを考えること」が書くことだと、ある作家が書いていた。主題やプロットなしに小説が書けるのか、これはむしろメタフィクションの宣言ではないのかと、ふと訝しくおもったのだが、南木さんのこのたびの小説を読んで、その作家の言葉をもうすこしあれこれとなぞってみたくなった。
「どうしていつも探しあぐねてしまうのだろう」──「熊出没注意」と題された冒頭の作品は、このような言葉で始まる。ここで主人公が探しあぐねるのは元同僚の墓なのだが、この言葉にはもっと広く、この小説集が伝える何ものかを暗示しているような気配がある。いくら探しても探したいものを見つけることができない、探したいものに至りつかない、あるいは、探しているものが杳として実像を結ばない、そんな気配だ。
かつて同僚であった医師の墓を訪ねるこの「熊出没注意」でも、妻と連れ立った山行で寝そべってそれぞれが眠りのなかへ消えまためぐり逢う「白い花の木の下」でも(「熊出没注意」でも山中で妻の姿をふと見失う)、同じ病院に勤めていた看護師らしき女性とのあいだでのやりとりを軸に物語が展開する「先生のあさがお」にしても、探しているものが、探しあぐねているうちに在・不在の境の彼方へといざってゆく。そのうち探していたものがほんとうにかつて存在したのか、そもそも何を憶えていたのか、それすらさだかでなくなってゆく。
この在・不在の感覚は、死者とのあいだでも、現存している者とのあいだでも、その境を跨いで揺れ動く。人に影や幻が重なり──そういえば、日本語の「かげ」には物の姿と物の影という二重の意味がある ──、世界の内と外とを行き交い、生と死、私と非私のあいだをたゆたう。ある日、プールの帰りに田んぼのなかの十字路でひとりの女性と出くわし、あさがおの種をもらうところから始まる表題作でも、語らいのなかで、その婦人がかつて同じ病院に勤めていた人だったかさだかに思い出せない。いや、ほんとうに逢ったかも不明になってゆく。語らいに誘われるままに入ってゆく「ぼく」も、語らいのなかでその生存の輪郭はしだいにぼやけてゆく。ちなみに、もしわたしに見逃しがなければ、主人公の地語りのなかにはいちども「ぼく」あるいは「わたし」という主語は登場しない。
けれども、南木さんの叙述のなかには二つ、表だってはいないがたしかな軸がある。
一つは、齢とともに訪れる身体の微かな変調に聡く耳を澄ますこと。たとえば──
「いたものが、いなくなる。いなくなったものが、いる。身近に起きる出来事は単純明快なほど、みぞおちに強烈な膝蹴りをくらったみたいにからだの芯にこたえる」
「〔墓前で線香を焚いて合掌するという行為を〕果たし終えてみると、こんなありふれた儀式を定型にのっとって遂行するよりも、墓を探しあぐねて全身汗まみれになっていたときのほうがはるかに強く彼のことを想っていたのがよくわかった」
変調はからだのいたるところ、言ってみれば人称の辺縁、もしくは欄外で起こる。臀部や陰嚢のあたりに、頸椎に、あるいは眠気や凝り、胃のつかえというかたちで。そこには老いの影も忍びよっている。「あまた寄せくる慣用句を、いつの間にか食道と気管が、つまりはからだが勝手に取捨選択するようになった」というときもあるが、老いと死の近さが《青さ》が生まれるときのむずがゆさや淫らさにひそかに通じているときもある。
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