主人公はしかし、ときどきそういうことを意識することじたいが鬱陶しくなって、あるいは煩わしくなって、ときにやりおきもする。記者の質問に、いいように話しておく、それでいい、それがいいと、じぶんに言い聞かせるかのように。「ちょっとまえなら自虐のノイズをかぶせなければおさまりのつかなかったはずの事実」もうっちゃっておけるようになった。そしていまはこのような二重化さえおっくうになった……。老いはここにも忍びよっている。
そのようななかで、語り手は最後、夢幻(ゆめまぼろし)の世界への誘惑に抗うかのように、妻とともにあさがおの種をとる手仕事でそれを鎮める。それがむかし上州の寒村の土間のある家で祖母と小豆の実を採った夜を思い出させ、「一回の呼吸がとても深くゆるやかになってゆく」のを感じる。が、妻が鼻歌まじりに風呂場に消えたあと、ふと気がつけば、彼はふたたび、「咲ききれないまま散りそびれた小さな紫紺の花が一輪、蛍光灯の光を受けてずんずん開いてきた」という夢うつつのなかにあった……。
ひとは人生を夢うつつのなかで通り過ぎるのだと言えばいいのだろうか。
鶴見俊輔は「その他の関係」という風変わりな題をつけた文章のなかで、通り抜けるものとしての人生について語っている。
自分は、かつて家のなかで有名な「者」であった。その記憶を大切にする。そして、やがて自分は「物」となって、家族の者にとってさえ見知らぬ存在になっていくという覚悟をして、そして物としての連帯に向かってゆっくりと歩いていくという覚悟をもって、家を一つの過渡期として通り抜ける。それが重要じゃないんでしょうか。
ひとは生まれたときはとにかく有名だ。有名であるとは、だれかとしてひとに知られ、尊重されているということだ。ここには何ごとにも代えがたい満足感がある。けれどもそれは実像として記憶されているわけではない。そのように記憶としてひとびとの証言を地として織りなしてきたものだ。それが「かたり」である以上、夢かうつつかはわたしには分からない。他方、ひとは死んで、だれかで亡くなってはじめて、しかと思い出される、はずだ。が、これはだれもがそうしてきたとはいえ、わたしにとっては空想にすぎない。思い出されようにも、そこにわたしはない。いずれにしても、このように在・不在はちぐはぐなものだ。ひとが夢うつつのなかで人生を通り過ぎるとは、そういうことではないのだろうか。だからこそ、この小説集の語り手が、ときに物語としての過剰なまとまりを排し、ときとしてそれなりによくできた物語を物語としてやりおいたように、ひとの「かたり」をときに聞き流し、ときにはぐらかす、あるいは聞こえてないふりをする、聴かなかったことにするといったことも、生き存(ながらえ)る知恵としては必要になる。そしてその生き存えのなかでこそ、語り手があさがおのなかに見た「典型だけが有する尊さ」といったものも炙りだされてくるのだろう。本書の語り手にとってそれは、たとえば、「とても静かな、食うか、食われるか」という、夫婦の、業としか言いようのない関係であった。
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