解説を書くことになって、ふっとこのメンバーが顔を揃えたときのことを思い出しました。もう何年か前のことです。秋田師の應典院で釈先生と対談をしたことがありました。うろ覚えですけれど、「現代人の死に方」とか、そういう演題だったように記憶しております。そのときも途中から映画の話になり、釈先生も僕も映画好きですから、小津安二郎の映画における「供養」の話に熱中しました(本書でも似た話が出てきます)。するとフロアにいたひとりのおじさんが「なんで、映画の話ばかりしているんだ! 演題のとおりの話をしろ!」と怒りの声を上げました。僕はちょっと面食らって「いや、その話をしているんですけど……」とぼそぼそと言い訳じみたことを言ったのですが、おじさんの怒りは収らず、場内騒然となりかけました。
そのとき、舞台袖にいた秋田師がすっと立ち上がりました。そして、おじさんの方にゆっくり歩を進め、隣にすわり、耳元でふたことみことつぶやきました。すると、それまで色をなしていたおじさんが急に緊張感を失い、そのまま秋田師に肩を抱かれるようにして、会場外に連れ出されていったのでした。
僕はこの光景のことをはっきりと覚えています。なるほど、應典院は秋田師の「結界」のうちなんだなと思い知ったのです。「結界」というのは、その中に出入りするものを活殺自在に扱えるような空間のことです。その「場を主宰するもの」が発揮する力を「法力」と呼ぶこともできると思います。荒ぶるものを鎮め、怒りや憎しみや怨みといった激しい感情をなだめ、不安や怯えや悲しみを緩和する力のことです。
釈先生もつよい法力を備えた僧侶です。これについては、先生と共催している「聖地巡礼」でたびたび実感する機会があります。最近はっきり感じたのは、「京都境界線めぐり」のときのことでした。「あだし野の露、鳥部山の煙」と呼ばれた中世の異界との境界線上をまる一日歩いたあと、ふと振り返ると同行の「巡礼部」のみなさんがどんよりしている。『ちびまる子ちゃん』でいうところの「顔に縦線が入っている」状態です。でも、行程の最後で釈先生の「法話」をうかがって短い読経に耳を傾けると、全員が「憑きものが落ちた」ようにふだんの明るい表情に戻っておりました。後日、「あのときはちょっとみなさんの様子が危なかったので、だいぶ力を出しました」と釈先生がぽつりとつぶやくのをうかがって、そうだったのかと得心しました。
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