僕の見るところ、この本で対談しているお二人はそれぞれにかなり「法力のあるお坊さん」たちです。もちろんお二人とも「常識ある現代人」ですから、そういう生々しい言葉は使いません。でも、本書を「映画好きのお坊さんたちのおしゃべり本」だと思ったら間違いです。これは映画論のかたちを借りた宗教書、それもかなりレベルの高い宗教書です。
映画はあくまで「入り口」に過ぎません。法事のときにお坊さんが、故人の逸事を語り、そこを「入り口」にして、座に連なる人たちを宗教的叡智の境位へと道案内するように、本書の二人の語り手は、映画を入り口にして、そこから読者をじわじわと「深み」に誘ってゆきます。
本書はたしかに「映画好きのお坊さんの気楽なおしゃべり」のように始まります。語り口がやわらかいですし、二人とも映画については驚くほど博識ですから(秋田師はなにしろあの日本映画史上に輝く『狂い咲きサンダーロード』のプロデューサーだったという異色の経歴の人ですし)。
でも、途中からだんだん様子が変わってきます。そして『おくりびと』を取り上げて、「葬儀」と「死者との共同体」、「グリーフ・コミュニティ」(「悲嘆の共同体」)といった論件に進むあたりで一気に思想的深度を急角度で深めてゆきます。このときの沈潜感は読んでいてちょっと肌が「ざわっ」としてきます。
この本のあちこちに僕は赤鉛筆で線を引き、付箋を挟みました。
例えば、釈先生の「この共同体には、死者も含まれます。生きている者だけで共同体を形成しているんじゃないんです。」(158頁)という言葉や「実は、年回法要といったものなどは、時間軸を長くする文化装置でもあったのではないかと思うのです。」(201頁)という言葉。あるいは、秋田師の「冥福を祈るという祀りごとすべてが供養です。ですから供養は、死者と残された者の間に成り立つ『贈与』です。」(185頁)、終章の「仏教経済学」についての印象的な言及(232頁)などはどれも「ずしん」と心の中にしみる言葉でした。
こういったトピックについてお二人からもっとお話をうかがいたいと切実に思いました。
解説というよりは「お礼」になってしまいましたが、良い本を出して下さって、ほんとうにありがとうございました。これが文庫化されて、多くの読者に読まれることで、日本の宗教文化が厚みと奥行きを増すことを願っております。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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