※『侠飯(おとこめし)』発売時に掲載されたインタビューです(2014.12.09掲載)
12月に文春文庫から刊行される『侠飯(おとこめし)』は、“ヤクザ”が御取り寄せとグルメ(B級ですが)にこだわる、まったく新しい異色グルメ小説。自身も料理がとても好きだという著者の福澤徹三さんに話を聞いた。
福澤 子どもの頃は、いまほど豊かな時代ではなかったせいか、あまり美味しいものを食べた記憶はないですね。外食の機会はめったになくて、寿司といえば巻き寿司と稲荷、ステーキやベーコンといえば鯨だと思ってました。当時は肉のなかで鯨がいちばん安かったんです。母が大ざっぱな性格だったので、わが家の料理はかなりアバウトでした。味噌汁はいりこのでかい奴がそのまま入ってて、カレーはジャガイモやニンジンの角がごつごつしてました。
高校2年の頃に両親が離婚してからは、父とぼくはそれぞれ自炊になりました。父の料理は母よりひどくて、チャーハンなんか粘土みたいになってる。ぼくのほうは大藪春彦先生の小説にでてくるダーティなヒーローにあこがれて、毎朝生卵を5つ呑んだり、ボロニアソーセージや生レバを丸かじりしたり、わけのわからない食生活でした(笑)。
もうちょっと本式に料理を作ったのは、はたちで夜の世界に入ってからです。
最初は料理を作るつもりはなかったんですけど、その店で働きだしたとたん、暴走族上がりでシンナー中毒のチーフが首になって、ほとんどヤクザまがいのマネージャーから「おまえやれ」っていわれたんです。それでいきなりチーフです(笑)。本書にでてくるオイルサーディンやカマバターやリンゴチーズは当時の店でだしていたつまみです。
そのへんから料理が好きになって、いまでもよく作ります。料理の腕はほとんど素人ですが、いまはネットのおかげでどんな食材でも手に入りますから、下手に外食するより旨いものが食べられます。本書には実用書的な側面もあるので、ぜひ活用していただければと思います。
――本書の主人公、若水良太は就職活動苦戦中の大学生。路上で抗争に巻き込まれたことをきっかけに“ヤクザ”の柳刃を家にかくまうことになってしまう。
福澤さん自身もいろいろな職業についてきたということですが。
福澤 バイトも含めると20種以上は職を転々としてきました。といって、主人公の良太のように就活で悩んだことはないんです。学生時代は超の字がつく劣等生でしたから、就職なんか興味がなくて、ただ遊びたいばかりでした。でも遊ぶにはお金がいるから働くしかない。当時は携帯もネットもないので、仕事を探すには求人情報誌が頼りですが、田舎だから募集職種は営業か肉体労働くらいしかない。ぼくはぼくで「営業ってなんだろう」と首をかしげるような若者でしたから、18歳のときに百科事典の飛び込み営業をやったのが最初の就職ですね。
そのあと水商売やアパレル業界で働きましたけど、うまくいかずに上京しました。東京でも日雇いの現場作業員やら雀荘の店長やら、いくつも転職を続けてました。ちょうどバブル景気の前だったので、東京の求人情報誌は電話帳みたいに分厚くて、見たことのない職種がたくさん載っている。そこで広告業界というものが、この世にあるのを知ったんです(笑)。それがきっかけで、グラフィックデザイナーやコピーライターを経て、百貨店のアートディレクターになりました。それから専門学校の講師になって、現在は作家というのがおおまかな職歴ですね。そうした過去の経験から、就職がらみの新書も2冊だしていますが、本書にも就活で悩む若いひとたちへのアドバイスを盛りこんでいます。
――“ヤクザ”の柳刃は良太の部屋から動かず、ストレスを発散するかのごとく料理に打ち込んでいる。料理のことぐらいしか会話のないふたりだが、次第に良太は柳刃を認めるように……。
『Iターン』では北九州のヤクザにからまれたリストラ寸前のサラリーマンがヤクザにカツを入れられていましたが、福澤さんの書くアウトローはとても生き生きとしていますね。
福澤 昭和の時代、男のかっこよさっていうのは任侠だったと思うんです。任侠とは必ずしもヤクザのことじゃなくて、弱きを助け強きをくじく、いざとなったら己を捨てる自己犠牲の精神です。そういう任侠に生きる「男」がかっこいいという共通認識があったから、若者はそれを軸に目指す方向を考えられたし、物事の善し悪しを測りやすかった。
ところがいまの時代は「男らしさ」が単なるマッチョや不器用さだととらえられていて、効率的で結果を求める生きかたが主流になっています。効率的で結果を求めるのは経済の考えかたであって、任侠の精神とは対極にあるものです。自己犠牲なんて非効率の極みですからね。人生において経済効率を第一とする風潮は若者にも広まっていますから、金持が尊敬され貧乏人はさげすまれる。
昔は地域社会が機能していたので「街場のかっこいいひと」というか、その町のヒーローがいました。そういうひとは往々にして貧乏なんだけど、生きかたで尊敬されている。いまはそういう人種は絶滅して、ブラック企業の経営者のように他人を犠牲にしてでも金を独占する人種が尊敬の対象になっています。でも、そんな経営者のもとに集まるひとは、ひとじゃなく金を尊敬してるだけなんで、金の切れ目が縁の切れ目です。仕事だって料理だって、儲けや効率ばかり優先してたら、いいものはできない。あえて面倒なことをやるのは非効率的だけれども、そこに「人生の味」があるんじゃないでしょうか。