『感受体のおどり』では、「私」が生きた何層もの時間が、「舞踊」の時間、「幼年期」の時間、「作家」の時間、「仕事」の時間など350のブロックに分けられ、それらが自在に組み合わされることで、「私小説」が「記憶」の曼陀羅とでも称すべき未知なる作品世界に変貌を遂げている。その中心をなすのは「舞踊」の時間である。しかも「私」が教えを受ける踊りは、「一きょくの中で数かいから十数かいも性別を転換したり、男が女の身なりで男を踊るとか女が男の身なりで女を踊りながら男のふりをするとかいった幾層ものややこしさ」をもつものであった。踊りを通じて「私」は、男にも女にもなることができる。
「記憶」の曼陀羅が、あらゆる差異を乗り越えて、いまこの場に生起してくる自由な舞台として、実現しているのだ。その舞台を貫いているのは「私」の恋である。抽象的な名前をもち、性別すらも判然としない、「私」の踊りの「師」である月白への恋。黒田は、現実的には成就が見込まれないその恋を、文学的な表現として、過去と現在、男と女、精神と身体等々、あらゆるものの対立を無化してしまう踊り、つまりは「感受体のおどり」として昇華する。
「月白がとなりに並んで手ほんとしてそう踊ると、瞬時にそのふしぎな官能のたゆたいが私の中にも生じた。瞬時に私のからだが月白のからだを写すと、私の中に生じたものが月白の中にも近似したものが生じていることをさとらせ、月白もまたさとられたことを照りかえしとしてさとる」。
身体の踊りは、同時に、言葉の踊りでもあった。黒田が達成した文学表現の白眉であろう。まったく異なった2つの個体である月白と「私」が、踊りを通じて一体化する。「どんなかすかなしぐさも、かすかならばいっそう精緻に、骨や肉や筋や節や肌や管のかぎりなく近似した感覚の連鎖をたがいの中に呼びおこしてしまい、それは演じている人物の心事をも綯(な)いまぜ、いまのようにじぶんのからだのぶぶんがふいに他者のものであるようなないような夢幻的な身体感覚までふくめて、きわめて陰微にかよいあった」。
黒田夏子は、『感受体のおどり』を、登場人物のすべてに美しい象徴的な名前が与えられた恋の物語という点では『源氏物語』のように、分断された「記憶」の再生を主題とするという点ではプルーストの『失われた時を求めて』のように書き上げた。その際、記憶のブロックの1つ1つを、他の誰にも似ていない方法で、「生のままの芸術」を代表する郵便配達シュヴァルやヘンリー・ダーガー、あるいは『感受体のおどり』に登場する制度に馴染むことのできない野生の少年にして野生の画家「印板(しるしーた)」のように、積み上げていった。いずれも固有名を記さずに『累成体明寂』のなかに記された黒田が偏愛する人物にして作品である。他に類を見ない、黒田の代表作となるであろう。
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