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黒田夏子『感受体のおどり』著者インタビュー

黒田夏子『感受体のおどり』著者インタビュー

「文學界」編集部

『感受体のおどり』(黒田 夏子)

出典 : #文學界
ジャンル : #小説

『感受体のおどり』は黒田夏子さんの新しい本であり、『abさんご』以前に一応は書きあがっていた旧い長編小説である。

「その前に同人雑誌に連載していた千枚のものが終わったのが、三十三歳、一九七〇年のことでした。次は二千枚書こうとして、この作品に取りかかったのですが、引越したり身辺がごたごたして、初めの三、四年は断片的なメモを取ったり、考えていただけでした。書き始めたときには、全700番にして、35の断章を二十回、らせん状に巻いていくつもりでした。そのほうが姿はきれいですから。この設計で八百八十枚ほど書いたのですが、最後の二年で、真半分の350番にしようと思い切りをつけました。調子の低いところを切り、他の断章とあわせたりして七百枚で収めました。仕上がったのが一九八四年ですので、ほぼ十年、いじっていたわけです」

 35の断章が十回、と聞いて連想するのは『abさんご』。もしやこちらも、3×5=15、のさんご、ではないか。

「そうです、そうです。さんご十五で、十五夜の連想も隠れています。〈満月たち〉という章もあるのです。350という数字は700の半分という偶然でしたが、ああ、またさんごだ、とあとから自分でも思いました(笑)。七百枚で350番ですから、一つの断章が平均二枚という短さになりました」

 断章を積み上げる方法はどのように編み出されたのだろうか。

「順を追って書いていくのは性に合わないという感覚は、最初からありました。幼年時代から中年に至るまでを時系列で書くと、自伝みたいになってしまって、ほんとうに自分が書きたい芯のところになかなかたどりつけません。語り手の『私』には踊りの世界や物書きの世界があり、生計のためにいろいろな仕事をしています。普通の書き方をするなら、場面が移るときに説明的な文章が必要になりますが、その『つなぎ』を書くのが嫌なんですね。絵ならば空白で残せばいいのでしょうが、文章ではそうはいきませんから」

 こうして順不同で断章を書き溜め、あとで組みあわせるという書き方が三十代で定まったのには、外的な条件も絡んでいた。

「これを書いている時期は、校正の仕事をしていました。不規則な仕事ですし、生活に追われていて、書くことに専念できる状況ではありませんでした。書くための時間が切れ切れにしか取れないというマイナスの条件を逆手に取ろうとして、珍しい書き方につながったのかもしれません。書けるところから手をつけて、あとで編成しなおす書き方なら、長いものが仕上げられるのではないか、という思いもありました。やってみたらそれが面白かった。並びあう断章を連続させたり、対照させたり、変化もつけられるし、場面転換もプラスに生かせる。この書き方が自分にはよく合うという感じでしたので、その後の『abさんご』でも続けています」

 

 なぜそこまで長いものを仕上げることにこだわったのか。

「短編だと世界の部分を切り取る感じになるでしょう。そうではなくて、自分のことばで大きな世界をつくりたいという好みが、中学生の頃からありました。ただ、賞にも合わないし、生計には結びつかない、損な書き方かもしれません。作中の『私』も、出版するあてもないのにそんな長いもの書いてどうするんだって怒られていますが(笑)」

 実際、『感受体のおどり』は、三分の一ほどが雑誌に発表されただけだった。

「105番までを『航海記』創刊号に発表しました。これは同人誌ではなく、羽黒洞という出版元から一九八三年に出た文芸誌です。岩田宏さんなどに書いていただきましたが、原稿が足りなくて、私のものを穴埋めに使ったのです。もし創刊号で終わってしまわなければ、続けて載せるつもりでした。翌年、最後まで仕上がったので、なんとか本にしたいとある版元に持ち込んだんですが、条件が折り合わずに諦めました。ごたごたしているより、次の作品を書きはじめようと思いました」

 未発表部分を読んだ人はいたのだろうか。

「手書き原稿ひとつしかないのでは心もとないですよね。やっとコピーが手軽にできる時代になったので、ほんの数人に、火事があると燃えちゃうから預かっててよ、と言って、原稿のコピーを送りつけました。昔、一緒に同人誌をやっていた連中ですから、読んではくれたみたいです(笑)」

 こうして、『感受体のおどり』は刊行された。完成してからちょうど三十年後である。

「夢みたいで、自分でもまだ状況が飲み込めていません(笑)。生きているうちに本にはならないだろうなと諦めていましたから。
 刊行にあたって、いくつかの断章を入れ替えたり書き直したりしました。三十年経ってしまったけれど、七十過ぎてから手を入れることができたわけですから、結果的にはこれでよかったのだろうと思いますね」

 本作もまた、時間そのものが主題をなす。踊りの師匠である「月白(つきしろ)」、きょうだい弟子の「練緒(ねりお) 」、物書き志望の「走井(はしりー)」など、五十人もの人物と語り手の「私」との関係の変容が描かれる。
 登場人物すべての名前には「ら行」の音が含まれる。「毬犬(まりーぬ)」「錆入(さびーり)」などと日本語ばなれした響きをもち、男か女か限定できないように仕組まれている。

「小説の人物の名前には昔からこだわりがあって、この作ではその人物像だけでなく、相互の関係を示す呼び名を考えました。こんな名前も、三十年前にはもっと抵抗感を持たれたかもしれませんね。面白いことに、当時生原稿のコピーを読んだ友人たちは、この小説には性別がないということに気づきませんでした。『私』は女だと思いこんで、周りを男女いずれかにあてはめて読む。昔からの知り合いが、私が『私』といえば女に決まっていると受け取るのは当然なのかもしれないけれども、『男か女かは不定だ』と十回も繰り返して書いたのに、とちょっと不満でした」

 

 第1番、冒頭の一文は「男か女かときかれて、月白(つきしろ)はどちらかと問いかえすと、月白(つきしろ)が女なら男なのかと月白(つきしろ)はわらった」。日本舞踊では、男役を踊ることも女役を踊ることもある。二重らせんのようにまつわりながら、この文章が十回、変奏されていく。

「日本舞踊はもとは歌舞伎ですから、男の踊り方、女の踊り方が細部まで決められています。型が決まっているから、どちらにもなれて、交換可能なのです。一つの踊りのなかで男女が変わることもあります。私自身、二十五年ぐらい日本舞踊を習っていましたが、男役ばかり好んで踊っていましたし、男役を踊りながら、さらに女の真似をすることもあります。一方で私のなかには、性別やジェンダーのない作品を書きたいという思いがありましたから、踊りの世界とうまく合うんじゃないかと思いました」

「私」は「月白」に永い恋をするが、それはついに成就しない。だからといって「私が女なら月白は男だ」というわけではない。

「芸事の世界では、同性同士が恋することもごく普通にあります。特に、片方が未熟な時代には、同性の年長者に一種の恋ごころを抱くのは、ごくあたりまえのことなんですね。どこまでいっても実際にはどちらの性別なのかわからないように書いたつもりです」

 恋のために踊りから離れられない「私」は、物書きになりたいと願っている。踊りの圏、物書き仲間の圏、仕事先の圏……切れ切れになりながら、それらの間を縫うように生きていく。唯一、描かれないのが家庭である。

「たしかに家族関係については、『感受体のおどり』ではふれていません。『私』はごくあたりまえの生まれ育ちで、生まれた土地でそのまま育っていったのだと受け取られるように、意識的に排除しました。その後、ここで切り落としたものを見つめなければいけないと思って、家族関係を中心にした『abさんご』を書いたのです」

 そのかわり、幼年時代の挿話は多い。

「どなたにとっても幼年時代はいちばん本質的な『感受体』であって、大人になって考えたことは全部、その時代にすでに考えていたんじゃないか。私には幼年時代の感覚をいまだに引きずっているところがあります。普通は忘れたり、常識で修正したりするのでしょうが、どうしてもその感覚を抱えつづけている人間が、物を書くようになるのではないか。そのときに分析しきれなかったものを、今、言葉にしてやりたいという思いがあります」

 例えば第43番「走井(はしりー)の組に異国のおとぎばなしをたくみに話す小児がいた」。ある日、その子が語っている途中で時間がなくなり、お話は途中で終わってしまった。「走井」は続きを教えてほしいと頼むが、先は作っていないし、そこまでの筋も忘れてしまったという。

「聞きたかった物語が、書物や記憶や機会がうしなわれたせいではなくて、ただもう純潔に無いということのふしぎは、それまでの物語が走井(はしりー)に見せたあらゆるふしぎのむこうに、照り輝いてまっしろだった」

 それが、自分も物書きになりたいと「走井」が願う原点となる。美しい断章である。
「私」は「走井」の作品を愛し、人柄を愛そうとするのだが、共に過ごす時間はおだやかに流れることがない。なぜ、「私」のそばにこういう人物を配置したのか。

 

「『私』の反対側にいる人物が絶対に必要だと思ったのです。初めは『私』を全面的に認め、味方にたつ人物をもう一人別に配していたんですが、甘くなっちゃうので、かなり早い時期に切りました。『走井』は『私』と対立する面を強調して、かなり極端な人物として作り上げました。あくまでも『私』を敵代表として攻撃してくるので、『私』としてはひたすら傷ついてもてあますことになりました」

 自分の出自にコンプレックスを抱く「走井」は、世界を敵にまわして戦っている。「私」はその怒りを共有できず、負い目を感じつづける。踊りの世界では富んだ家の子が華やかな役をもらい、貧しい者は下積みの仕事をする。階級というものがこの小説にはあらわに描かれていて、どきりとさせられる。

「みなさん、そのことに触れないようにしていらっしゃるのでしょう。口に出さないだけで、内実は変わらないではないか、とはっきり暴いてしまったのかもしれません。私は小学校三年生で終戦を迎えましたので、高校時代までは戦前の感じをひきずっていました。小中高一貫のミッションスクールには階層意識が根強くて、口には出さないけれど、みな観察しあっていた。ただ、畏れ多くも帯に引用されているプルーストや源氏物語にも、そのような構図ははっきり、あるわけですよね。いずれもさまざまな階層の人間を描きわけていますし、それはまだまだ未解消のことではないでしょうか」

 ちなみに本作では、何十年もの時間の流れを扱いながら、時代の限定がなされていない。作中の「私」がいくつで踊りを習い始めたか、いつ戦争が始まったか、『abさんご』とは異なり、一切書かれていない。しかし、物語の語られる時点では、「走井」の怒りも苦しみも過ぎ去ったことである。「私」は過去に向かって、哀惜の念をもって、語りかけるのだ。

「それぞれの人物と『私』との関係性は、時間が経つにつれて変化していきます。何十年かの時間の流れを扱ったときに、必ず変質が起きる、というところも書きたかったことです。すべての関係が同じように変わるわけではありません。ただひとり『走井』に関して変質が起きていないのは、どこかの時点で死んでいるからなんですね。ああいう人物はとてもじゃないけど長生きできないでしょう」

 鮮やかなのは、恋と踊りのライバルである「練緒」の描き方である。肉がかさばるいまの断章と、ほっそりして利発だった幼年時代の断章とが続けて配置されることで、時間の流れがはっきり見えてくる。

「かろやかな人物がだんだん重たくなっていくのを書きたくて、『重い練緒』と『軽い練緒』を対比させ、『私』にとっての変化を書いていきました。最後に赤ん坊にすることを思いついたときには、自分でも、ああ、これでこの人物が終われるなと思いました」

「私」はいろんな人の運命を見守る。そのなかには高名な作家もいる。「私」は踊り手として、「語池」と「歌城」の知遇を得るが、二人はそれぞれに自らの生を「完結」させるのだ。すぐれた踊りの先輩も自殺を遂げる。美しかった「月白」も老い、こわばりをむきだしていく。時間の残酷さが踊りの世界において、よりあらわなのはなぜだろうか。

「物書きには、肉体的な老いはあまり関係ありませんからね。『月白』への恋は、もともと外貌の美しさから始まったもので、それが衰えていくとき、相手を冷たく観察しているところもあるわけですよね。恋が冷めるというより、こじれてねじれていく。諦めるというよりはむしろ、相手自体が廃墟になってしまう。それを最後まで辿りつくしてしまおう、というところがある。そのことを、作品のはじめと終わりにきちんと置こうと思いました」

文春文庫
abさんご・感受体のおどり
黒田夏子

定価:1,034円(税込)発売日:2015年07月10日

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