- 2017.01.21
- 書評
二重の謎迷宮の果てにたどり着く、読者の世界観を揺さぶる結末とは?
文:巽 昌章 (弁護士・推理小説評論家)
『死の天使はドミノを倒す』 (太田忠司 著)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
端的に言えば、ここでの「人権派弁護士」は、推理小説における「名探偵」や「殺人鬼」と同列の、ひとつの極端な役割です。何のためにそんな役割を呼び出したかといえば、おそらく、作中人物の織り成す葛藤を、ひとつの極限的な対立図式に変換するためであり、それがこの小説に寓話めいた抽象性をもたらすのです。
世間がなんと言おうと被告人の味方をする弁護士とは、システムの権化です。裁判の公正のためには誰かが被告人の利益を擁護せねばならないという、刑事司法システムの要請する役割に徹し切ろうというわけなのです。それゆえ、たとえば、薫の体現する弁護観と被害者遺族の吐露する心情が衝突する場面で、真に対立しているのは、世界をシステムとして捉える見方とそこに納まりきらない人々の感情だということになるし、薫の人生の謎とは、なぜ彼がシステムに人生を捧げたのかという謎だと言い換えてよい。
むろん、ここで詳しく書くわけにはいかないけれど、やがて姿をあらわしはじめる「死の天使」の正体もまた、ある種のシステムです。『死の天使はドミノを倒す』という表題には、一枚一枚のドミノ札に意味はない、意味があるのはその配列なのだ、そして人間という存在もまた……という世界観が暗示されているのです。
国家や法の中で生きるということは、システムの中で生きるということですから、誰だってある面では世界をシステムとして眺めているはずです。だが、はたして人間はそのような世界観に徹し切れるのだろうか。それがこの小説の問いかけです。たとえば、薫や「死の天使」とは対照的にごく世俗的な人間として描かれる陽一は、父の死の直後に、こんな感慨に襲われます。
「本当に死んだんですか」
医師は陽一の気持ちを誤解したようだった。いたましそうな表情を浮かべ、
「残念ですが」
と言った。
父親の死を認めたくなくて訊いたのではない。生きているときと死んだときの差がわからなくて当惑していたのだった。
医師にとっては、あるいは、赤の他人にとっては、死と生の差異は自明です。それは、私たちがその区分を社会のシステムとして受け入れてしまっているからです。しかし、特別な人の死に直面したとき、われわれも、このシステムから零れ落ち、「当惑」に襲われるかもしれない。薫はシステムに殉じ個人の感情を黙殺するがために奇人とみなされ、陽一は感情の揺れによってシステムからはみ出しがちであるというわけです。
これらの箇所に限らず、『死の天使はドミノを倒す』は、社会問題や人の悲しみ、苦しみを「事実」として生々しく描き出そうとするのではなく、その根底にあるはずの世界観をめぐる葛藤に目を注いでいます。この本が残す、ふかっとしているようで不思議な重みのある読後感はこうした視点からきているのでしょう。
人の心の中は他人には見えないし、触れることもできません。社会問題なるものは、多くの利害がからみあい、視点の違いによって姿を変えてしまいます。こうした諦念を根底に響かせながら、推理小説ならではの技巧でもって、「問題」や「感情」を成り立たせている世界の仕組みに挑み、その姿を一瞬なりとも浮かび上がらせること。そこにこの作品の狙いがあるわけです。