- 2017.01.21
- 書評
二重の謎迷宮の果てにたどり着く、読者の世界観を揺さぶる結末とは?
文:巽 昌章 (弁護士・推理小説評論家)
『死の天使はドミノを倒す』 (太田忠司 著)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
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ここまで書いてきたことは、太田忠司という作家を、いわゆる新本格の中に位置づける試みでもあります。
太田は、ショート・ショートの書き手として世に出た後、1990年に講談社ノベルスで初の長編ミステリ『僕の殺人』を発表しました。異様な運命に翻弄される少年の姿をトリッキイな技法で描いたこの小説は、その時期や発表舞台からしても、また、青春小説としての側面をもつことからしても、綾辻行人、法月(のりづき)綸太郎らを嚆矢とする新本格の流れに置いてよいのですが、その後の太田は、新本格のもうひとつの特徴である観念性に対しては、一貫して距離を置いてきたようです。
本格推理小説とは何か、名探偵とは何か、論理的に謎を解くとはどういうことか、そもそも人間にとって自分を取り巻く世界自体が謎ではないのか、だとすれば私たちに「謎を解く」ことなど許されるのか……新本格の時代には、こうした問いかけを推理小説の創作に投影させる傾向が顕著でした。法月綸太郎『頼子のために』、綾辻行人『霧越邸殺人事件』から京極夏彦『絡新婦(じょろうぐも)の理(ことわり)』、山口雅也『奇偶』あたりまで、優れた作例には事欠きません。こうした観念的な問いをはらむ作品は、おのずと事件の解決を通して世界のあり方を考えるといった構えをとり、論理的な謎解きの果てに論理と世界の間の裂け目に出くわしてしまうといった軌跡をたどりがちでした。
太田忠司は過剰な理屈を排し、常に親しみやすい作品を目指してきたという意味で、これらの作品群の晦渋さとは距離を置いていましたが、やはり、謎解きを通して世界観を問う作家の一人であったことが、この小説には如実にあらわれています。いや、この作品だけが例外なのではなく、実は、親しみやすい方の代表格、霞田兄妹シリーズにも同様の問いかけは潜在しています。ファンの方はとうにご存知でしょう。このシリーズには、志郎と張り合うもうひとりの名探偵、男爵(バロン)と呼ばれる冷徹無比な人物が存在していて、彼は人間の本質を把握すればその行動を支配することができるという、決定論的な悪夢の体現者だったのです。人間の自由や思いを尊重したい志郎と、人間をシステムの中に封じ込めようとする男爵との対立は、本書での葛藤と二重写しになるはずです。
霞田兄妹シリーズでは、いうまでもなく志郎を応援したくなります。だが、本書ではどうでしょう。
この世界ははたして、どのような仕組みになっているのでしょうか……