「吉ちゃんが俺と同じような経験、占領時代にもってたら、いや持ってるはずや、東京と神戸大阪ちごうても、ギブミイチューインガムの記憶があれば、あまりにでかすぎる兵士の体格におびえた思い出があれば、そらたたんのも無理はない、どっかとすわったヒギンズの足の下で、いくら吉ちゃん無念無想になったかて、頭の中にジープが走り、カムカムエブリボディがよみがえり、連合艦隊も零戦もなくなったたよりなさ、焼跡の上にギラギラと灼きつく炎天のむなしさ、いっぺんに昨日のことのように思い出して、それでインポになってしもたんや、それはヒギンズにわかるまい、日本人かて俺と同じ年頃やないと理解できへんやろ」――『火垂るの墓』とあわせて直木賞を受賞した『アメリカひじき』の一節。野坂昭如の、そして戦後日本の髄が、誰にも真似できない文体で描き出されている。
昭和五年(一九三〇年)生まれ。複雑な家庭の事情により、生後半年で神戸に養子に出されたが、空襲で養父を、疎開先の福井で妹を栄養失調で亡くす。戦後、早稲田大学仏文科に入学するが、放蕩のかたわら様々なアルバイトを転々とし、大学中退後は放送作家やCMソングの作詞家、ブルーフィルムの上映、コラムニストなどの職を遍歴。
昭和三十八年「小説中央公論」に『エロ事師たち』を発表して三島由紀夫に激賞され、四十二年に直木賞を受賞したが、以後も活躍は小説執筆だけにおさまらなかった。
世の人にとって、野坂は黒メガネの人、「ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか」「おもちゃのチャチャチャ」の人、薄暗い文壇バーで酒を飲んでいる人、とんねるずやダウンタウンとケンカした人、と、いかがわしいイメージの一方で、やはり何よりも『火垂るの墓』の人だ。
昭和五十八年に参議院に当選したり、衆議院選挙に出馬したりした政治的行動を、西部邁は『人間論』で、小林秀雄や石原慎太郎と比較しつつ「『真剣な戯作』の態度が氏の文章と政治の双方をつらぬいている」「何らかの価値に関与してはすぐさま逃亡するという往復運動を繰り返し」「それは、たしかに、価値の必要と空虚をともども炙り出す一つの有効な方法たりえている」と理解を示している。
真摯と虚無が同居し、怠惰とエネルギーが交錯する。その混乱はまさに敗戦後の日本そのものだった。
「日本はあの戦争で立ち止まって考えることをしなかった」「お上の暴走、それを許した世間。仕方がなかったで片づけて、空襲は天災の一つの如く受け止めて、戦争を人ごとのようにみなす」(平成二十七年=二〇一五年三月二十四日の毎日新聞コラム)と、最後まで警鐘を鳴らしつつ、同年十二月九日、八十五歳で逝った。