巨額の私財を投じて政治活動にまい進し、自民党総裁選に四度挑戦した藤山愛一郎は、ついに夢を果たすことはかなわず、「絹のハンカチが雑巾になった」と評された。晩年、財産として井戸と塀しか残らなかったという意味で「最後の井戸塀政治家」とも呼ばれた。
明治三十年(一八九七年)、東京生まれ。父は王子製紙の重役だった。慶應義塾普通部から慶應義塾大学部政治学科に進むが、病気のため、中退する。
父が築いた藤山コンツェルン傘下の大日本製糖社長となる。日東化学工業や日本金銭登録機の社長を経て、昭和十六年(一九四一年)、四十代の若さで日本商工会議所の会頭に就任する。
終戦後、公職追放にあうが、昭和二十五年に復帰。翌年、日本商工会議所会頭に再任される。その後、初代日本航空会長にも就任した。
昭和三十二年、民間人のまま、岸内閣の外務大臣に就任する。昭和三十三年の総選挙で衆議院に当選。外相として、日米安全保障条約改正に取り組んだ。
「外務大臣の仕事というのは、総理が全面的に信頼してくれるのでなきゃできんでしょうな。わたしは、岸さんがひっぱり出してくれて、まかしてくれたから、かなりやれたんですが、いろいろ口を出されたんじゃ、やれないでしょう。総理のいうがままに動く秘書官的外務大臣なら、それはそれでまた仕事できるでしょうがね。わたしには、ちょっとそれは……。しかし、仕事としちゃ、それはおもしろいですよ」(「週刊文春」昭和四十一年六月六日号より)
写真はこのとき撮影。
昭和三十五年、岸内閣退陣にともない、自民党総裁選に出馬したが、池田勇人に敗れた。その後、岸派から離脱し、自らの派閥を立ち上げた。自民党総務会長、経済企画庁長官を歴任。その後も三度総裁選に立候補したが、いずれも敗れた。この間、派閥の維持と総裁選に莫大な私財を投じたため、資産を失うことになる。
一方で、親中国派議員として活動、昭和四十五年十二月、日中国交回復促進議員連盟を結成し、政界引退後も国際貿易促進協会会長を務め中国とのパイプ役を担った。昭和六十年没。