彼らの口から発せられるその凄まじいエピソードの数々には、ただただ唖然(あぜん)とさせられるばかりだった。どこまでも自らの理想を追い求めた勝。理想を追い求めるあまりに「座頭市」にとり憑(つ)かれ、破滅へと向かっていった勝……。そしてスタッフの一人から、勝が演出する生の様子を録音したテープを入手することができた。このテープがまた、衝撃的だった。そこには、狂気と天才性の境界のスレスレを歩きながら、瞬間の閃(ひらめ)きで思うままに映像世界を紡ぎあげていく勝の姿が記録されていた。(テープの内容は、本書の中で余さずに書き起こしている)
理想と現実の狭間で蠢(うごめ)き、その命を削りながら臨んでいた混沌と狂気の製作現場から、あの美しい映像たちが生まれたのかと知ると、身震いが止まらなかった。
取材を通じて、勝の作品に賭ける理想、そしてその理想を前に悩み苦しむ姿に、心から共鳴するようになっていた。筆者の中での勝新太郎は、いつしか「憧れのスター」から「たまらなく愛(いと)しい人間」に変わっていた。
世の中でまだあまり知られていない、こうした勝の姿を少しでも多くの方に伝えたい。勝新太郎のことを書きたくて書きたくて、我慢ができなくなっていった。
『天才 勝新太郎』は、そんな想いを詰め込んだ一冊だ。
長年、勝の座付き脚本家を務めてきた中村努氏からは、次のようなお言葉をいただいた。
「楽しうて やがてかなしき 祭かな」
勝新太郎の激闘の日々の全てが、芭蕉の句をアレンジしたこの五七五の中に集約されているように思えた。中村氏をはじめ、取材させていただいた当事者は誰も、勝のことを悪く言うことはなかった。むしろ、勝のことを語る時はいつも、みんながみんな、なんとも言えない笑顔を浮かべていた。悲しいのに楽しい。楽しいのに悲しい。そんな笑顔だった。そうした笑顔の数々を見るだけで、勝との「祭」が彼らにとっていかに大切な思い出なのかが伝わってきた。
筆者も、今ならなんとなくその「祭」の気分が分かる。取材し、原稿を執筆しながら、「祭」を追体験した気になっていたからだ。ラストシーンを書き終えて、去来したのは充実感よりも喪失感だった。勝新太郎はもう、どこにもいない。新しい作品にも、現場にも、触れることはできない。「祭」は終わった。そう思うと、なんとも言えない寂しい気持ちになっていた。
本書を通じて読者の皆様にも、勝たちの「祭」に参加してもらうことができたら、と思う。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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