この物語の舞台は、田沼意次の時代から、松平定信の時代に移る頃の江戸です。幕府が開かれてから180年余りたった天明時代となります。社会は成熟期を迎え、剣術でも竹刀を使った稽古は当たり前でした。主人公の村上登は、仲間と一緒に昔ながらの木刀による型稽古に励む日々を送ります。
登は最下級の御家人で、小普請組支配下、つまり無役です。道場通いと内職の提灯貼りに勤しんでますが、時に他の道場に道場破りの助太刀を頼まれることがあります。
そんなある日、登が一振りの刀を手にしたことから話が動き出します。
この作品で私は第18回松本清張賞を受賞しました。清張賞に応募したのも初めてであり、時代小説を書いたのも初めてでしたので、受賞の知らせには本当にびっくりしました。
私は文学少年でもなく、いわゆる読書家でもありませんでした。その私が文章を書くようになったのは経済関係の出版社に就職して、記者ではなく、制作に携わったからです。
広告の文章を書く前提は、読まれないし、信用されないということです。20年近く、いかにして読んでもらい、そして信用されるか、と取り組んできたので、それが私の文章力修行になっています。
で、40になってふと小説を書きだしました。小説を書きたい、という切実なものがあったわけでもなく、自然に小説が指先から出てきたんです。ジャンルは純文学でした。
その初めて書いた小説が、ある出版社の新人賞を受賞します。しかし、ここからが大変でした。ノイズを拾うために自分を実験台にするわけです。自分でハードルを上げて、自分を勝手に追い込みながら、10年近くやって、とうとう力尽きて筆を擱きました。自分をモルモットにする体力がなくなったのです。
それからほぼ10年、小説はまったく書きませんでした。その小説を書かない時期、世界を見る目が変わった気がします。人間は守るものだと、それが人間じゃないかと気づいて、世の中のあらゆることをひっくるめて受け入れるというのか……。小説を書こう書こうと思っていると、どうしてもその目で見ようとするんです。書かない時のほうが身に入ってくる情報量が多いんじゃないかと。