この題名から剣豪の修業譚のイメージを受けるかもしれないが、主人公は幕末維新の動乱期を生き延びた元新選組隊士の斎藤一。本書は浅田版新選組三部作の掉尾を飾る大作である。
周囲から守銭奴と蔑まれながらも妻子に送金を続けた南部藩脱藩の隊士・吉村貫一郎の悲惨な死を描いた『壬生義士伝』、女たちの目を通して芹沢鴨暗殺に至るプロセスと当夜の模様を詳述する一方で、近藤・土方一派と芹沢一派の軋轢の根底には“百姓と侍”の対立が存在したとする独特の史観に基づく新選組論が展開されていく『輪違屋糸里』に続いて、主人公の生死の哲学を浮かび上がらせている。
文久3年(1863)3月の結成以来、新選組隊士たちの多くは、幕府終焉時に一瞬の光芒を放って、歴史の波間に消え去っていった。そんな中で、助勤、三番隊長、副長助勤などを勤めた斎藤一は、明治の世で藤田五郎を名乗って警視庁巡査となり、明治10年(1877)の西南戦争では警視庁抜刀隊の一員として西郷軍と戦った。
本書は、その斎藤一が、一刀斎を名乗る69歳の老人として登場し、近衛師団司令部の陸軍中尉・梶原稔に幕末維新から西南戦争までの激動の歴史と自らの生死の哲学を語り聞かせる、という体裁で展開される。
明治45年7月の天皇崩御で大正の新時代に入ったころ、明治20年生まれで天然理心流の遣い手である梶原は、一刀斎という名は斎藤一が警視庁に勤務していた頃の綽名で、斎藤一を逆読みしたものであることを知って関心を持ち、教えを乞いたいと訪ねる。
一刀斎がまず語り出したのは、坂本龍馬暗殺事件の真相であった。そして伊東甲子太郎や芹沢鴨の暗殺事件のことなどが時間を前後して語られていく。
「人間はたかが糞袋にすぎぬ」という独自の人間観を持つ一刀斎が体験し見聞した幕末維新期の嵐の模様とそれに一刀斎がどう関わっていたかが明らかになっていく。