西南戦争は西郷隆盛と大久保利通が仕組んだ演習の猿芝居であり、徴兵令施行後の軍備整備のための壮大な演習だったと一刀斎はとらえており、「いつの世にも、権力はのっぴきならぬものじゃよ」と述懐する。
そんな一刀斎が、土方歳三の刀と遺影を託された少年隊士・市村鉄之助との哀しくも凄絶な関わりを語る。西南戦争の戦場で身についた必殺剣を思わず振るって「人ならぬ鬼」に変じてしまった、人の情けと鬼の心とが複雑微妙に相克する場面である。一刀斎がそれまでに語ってきた話の全てとその生死の哲学が、一刀斎の慟哭につながっていることを、読者は物語のラストに至って知らされることとなる。
本書初版時の著者インタビュー「新選組三番隊長・斎藤一が語る幕末の歴史と生死の哲学」(「本の話」2011年1月号)で、浅田次郎は斎藤一を語り手に選んだ理由を語っている。
「新選組を総括してやろう、と考えるとこれまでのように周辺の人物たちに語らせたり、バイサイダーの物語から説き起こすのではなく、新選組にどっぷりと浸かった人物の視線でなくてはなりませんでした。なかでも斎藤一は謎の多い人物で、出自なども不明の点が多い。特別な思想の持ち主でもなければ格別の教育を受けたわけでもない。剣を取ったら何も残らないという、新選組のある側面を象徴するような男です」
「(剣が強かったからこそ)幕末維新を生き延び、明治、大正と長らえたのは必然ともいえます。しかし、斬られない、負けないからこそ、常に『なぜ生きるのか、なぜ殺すのか』という命題を突きつけられていたと思います」
「幕末の人間だからといって、人を殺してもなんの罪悪感もおぼえないはずはない。あらゆる歴史小説、時代小説においては生死の哲学を持ち込むのはタブーともいえます。いちいち『なぜ殺す』と考えていてはチャンバラになりませんから。そういう意味では『一刀斎夢録』という小説は、時代小説のタブーをもって新選組を総括するという試みでもあります」
三部作を完成して、改めて著者にとって新選組とは、との問いにはこう答えている。
「10代の頃からの新選組ファンで、はじめはその滅びの美学に惹かれるものがありましたが、40年かけて付き合ってきた今では、何より人間ドラマとしての面白さに魅力を感じます」
三部作ともに、主人公のキャラクターも含めてそれぞれに趣向が凝らされており、これまでほとんど描き尽くされた感のある新選組に、新たな視点と角度でアプローチできる可能性がまだまだ存在することを実感させる。読者は、前世紀末の混沌と不安を引きずったままで揺れ動いている現代日本と対照してとらえていくことで、数多の先行作品とは異なる多様性と現代性を引き出すことができる。