2003年だったと思うが、ぼくはある聖書に出会って仰天した。
その聖書では「洗礼者ヨハネ」が「お水潜らせのヨハネ」と記されていた。
バプテスマというギリシャ語の単語には「洗礼」とか「浸礼」という漢字2字の熟語を作って対応させるというのが従来の方針だった。それを「お水潜り」と原義に戻って和語にする。
更に更に大胆なのもある。
主の祈りの従来の訳「御国が来ますように」は「お取り仕切りの来るように」となっている。お取り仕切り?
しかもこの聖書、正確に言えば4篇の福音書は、標準日本語ではなく東北のごく狭い地域で使われているケセン語という言葉への訳なのだ。その発音を記すためにわざわざひらがなの文字まで創作している。
最初から依って立つ思想が違う。これは従来のキリスト教と異なるだけでなく、明治期以来、日本人が西洋の思想を受け入れてきたその姿勢ぜんたいを乗り越えるようなとんでもない試みではないか。
開国して新しい思想が入ってきた時、日本の知識人ははるか昔に中国の思想を入れた時と同じ手法で用語を導入した。「哲学」や「文明」や「自治」などなど、とりあえず漢字2文字の熟語を作って、その意味するところは追ってゆっくり勉強する。
この方法の問題はどうしても一知半解に陥ることだ。漢字で書くと立派に見える。川柳に「失念といへば立派な物忘れ」というのがあったが、用語だけが勝手に1人歩きをする傾向がある。
「洗礼」や「福音」などのキリスト教用語も同じ原理で作られた。それをこの山浦聖書はひっくり返している。