高校生になった徹は、日本各地を渡り歩く原発労働者・大越に連れて行かれたキャバクラで出会った女・美紀(愛子)相手に童貞を失い、彼女とつきあうようになる。その頃、日本はバブル景気に浮かれ、ひきこもりだった兄も就職して羽振りを利かせるようになっていた。だが、やがてバブル崩壊の余波は徹の家族にも及ぶ。
美紀との別れ、就職、真理という女性との結婚、娘の誕生――徹のそんな人生の傍らで、徹の家族や友人たちは次々と命を落とし、あるいは癌に冒されてゆく。それは、この物語を通じて刻まれる不吉なリズムだ。真理とつきあいはじめた徹は、「もし、原電がメルトダウンを起こしたら、真理の手を、おれと真理の子の手を握りしめて天に祈ろう。この町がチェルノブイリのようになったとしても家族の手を、自分を愛してくれる者の手を放しはしない。敦賀は、若狭湾は、何10年も前に原電がもたらしたものと共に生きる運命を背負わされた。おれたちもその運命を背負っていこう」と述懐する。自分たちの故郷が、原発を受け入れて以降、いずれ事故が起こるかも知れないというダモクレスの剣の下にあることは、徹たちの世代からするともはやどうしようもないことであり、運命として受容するしかない。原発推進派は、(最近明らかになった九州電力のやらせメール事件に象徴されるように)さまざまな策を弄しながら、偽りの安全神話を国策として強引に押し進めていったが、ならば原発を受け入れた現地の人々は、そんな神話を頭から信じるほど単純だったのだろうか。実際には、人間のやることに完璧はあり得ないという不安を抱きつつ、地元の経済的繁栄のため、あるいは人間関係や保身を考えて、強いてその不安を押し殺していた……というのが実状だったのではないか。徹や友人たちも、原発の安全神話を頭から信じているわけではない。友人たちを冒した癌の原因が放射線であるかどうかは判断不能であるとしても、その不吉な可能性を完全に拭い去ることは出来ない。そんな宙吊りの不安こそが、原発が撒き散らす恐怖の核心なのである。
しかし、それは決して敦賀だけの、あるいは原発のある土地だけの運命ではなかったのだ。東日本大震災は、その運命をそれらの土地に押しつけたのは大都市であったことを、そして大都市もまた災禍から逃れられぬ立場であったことを明らかにした。今回の原発事故の人体への影響は、直ちにデータとして出るわけではない。長期間の経過観察だけが真実への道だからだ。だがそれだけに、結果が出るまで、私たちは恐怖の中に宙吊り状態で生きるしかない。
最終話「光あれ」で徹は、海から昇る巨大な太陽を見続けながら、「おれが社会に出たころから、敦賀はゆっくり死にはじめた。まるで癌にかかった年よりみたいに、ゆっくり、でも確実に死に向かって歩き出したんや」「敦賀は死にかけてる。そやけど、おれは敦賀で生きていく。どこかに行こうなんて思わへん。おれは敦賀の人間や。敦賀で生きて、敦賀で死ぬんや」と叫ぶ。今や、この「敦賀」を「日本」に置き換えても何の違和感もなくなってしまった。原発を受け入れた敦賀がムラなら、私たちが住むこの日本は、もっと大きなムラでしかない。そして、日本がゆっくり死に向かって進んでいるのだとしても、私たちの大半はこのムラから逃れられないのだ。「光あれ」とは、そんな諦念の中からせめてもと生まれた祈りなのか、それとも、反語的に表明された絶望なのだろうか。
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