かつて私は人に「先生」と呼ばれるのがいやだった。人に何かを教えているわけでもないし、小説家でもないのだから、と。だから「先生」と呼ばれると、必ず「『先生』はやめてください」といっていた。それが五年間、ある大学で教えることになった。期間限定の大学教授である。学生たちは私を「先生」と呼んだ。はじめは居心地が悪かったが、しかし、考えてみると、こちらは教える立場なのだし、彼らにしてみると「永江さん」よりも「永江先生」のほうがよほど呼びやすいのだろうと思いいたった。気持ち悪いが我慢した。
恐ろしいことに、「先生」と呼ばれ続けていると、いつのまにかそれに慣れてしまう。相変わらず違和感は残っているのだが、慣れていく自分もいるのだ。
やがてもっと恐ろしいことが起きた。あるとき、たまに学生から「先生」ではなく「さん」づけで呼ばれると、微妙な違和感をいだいている自分を発見したのだ。ムッとしないまでも、「なぜこの学生は私を『先生』と呼ばずに、『さん』づけなのか」と心のどこかで考えている自分がいる。恐ろしいことだ。
「先生」と呼ばれることの裏側には、誰かに力を行使することの快感が潜んでいる。
教室の中は平等だ、ともに学び合うなどといっても、教員と学生の間には歴然とした力関係がある。それは教育に不可欠なものだが、権力を持っている側の感覚が麻痺し、権力を行使する快感に溺れると腐ってくる。権力の意味を忘れ、快感だけをむさぼりたくなる。
無自覚な権力欲とはこういうものではないのか。
多くの場合、権力を行使する者は、その目的が正しいと思い込んでいる。さらに、正しい目的のためなら、多少プロセスに問題があっても許されると考えてしまう。しかし世界の歴史を振り返ると明らかなように、ほとんどの不幸は、それが正しいと思い込んだ人びとによって引き起こされている。権力者が権力を行使する快感に溺れ、正しいことをおこなっているという満足感に溺れ、人びとは不幸に巻き込まれていく。大人たちは若者に「おのれの信念にもとづき、正しいと思ったことをやりぬけ」などと説教したがるが、そんな言葉を真に受けたら不幸になる。
権力の多くは言葉によってつくられ、言葉によって行使される。「言葉とは力」。本書の序章で、宮藤隼人はそう演説する。のちに白石望は宮藤のスピーチライターとなり、宮藤の「力」を発揮するための「言葉」をつくる役割を負う。一方の神林裕太は新聞記者として言葉を武器に宮藤を追い詰めていく。「新聞記事は、人を生かしもすれば殺しもする」というのは、裕太の先輩記者、東條の言葉だ。そして、それが比喩でも何でもない現場に神林裕太は臨む。別のところで東條は、「独裁者は勝手に生まれるんとちゃうぞ。マスコミが先頭切って煽って崇めるから、国民がなびくんや。そういう意味では、わしらの責任は大きい」とも言う。『コラプティオ』は言葉と言葉の闘争の物語である。新聞をはじめ言論機関もひとつの権力である。表題である「コラプティオ」が、カリスマ総理・宮藤隼人にだけ向けられた言葉なのかどうか、本書を読み終えた私たちはよく考えてみなければならない。
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