いつだって変革は挫折するし、あらゆる革命は裏切られる。正しいと思ったことはたいてい間違っていて、自分は変わらないと思う人間はすでに変節している。理想は幻想に終わり、やがて絶望へと変わる。
それなのに私たちは英雄を求め、強い指導者の登場を望む。
コラプティオ(corruptio)とはラテン語で「汚職・腐敗」の意であると本書の最後にある。英語ではcorruption。堕落、買収、汚職。“corruptio optimi pessima”というラテン語の成句もある。「最良なるものの腐敗は最悪である」という意味だ。ラテン語でこういう言葉が残っているのだから、汚職や腐敗は有史以来ずっとあるわけだ。政治家の堕落はいまに始まったわけではない。
この小説はフィクションである。登場人物は架空のものだ。しかし、私たちは読みながら、つい現実のできごとや実在の政治家に重ね合わせてしまう。それはこの小説が事実を模倣しているという意味ではない。描かれているのが普遍的なことがらだからだ。小説の舞台は現代の日本である。しかも東日本大震災後の日本、今日只今の日本である。しかし、たとえこれが古代ローマであったとしても、あるいは十八世紀フランスや二十世紀のドイツだったとしても、そのまま当てはまる物語である。
主な役者は三人だ。カリスマ的政治家の宮藤隼人、若き政治学者で宮藤の政策秘書となる白石望、そして白石望の幼なじみで新聞記者の神林裕太である。
白石望と神林裕太のキャラクター設定にひとひねりある。肩書きからの先入観からすると、白石望にはお坊ちゃん育ちのひ弱なエリートを割り振りたいところ。そして神林裕太には正義感にあふれる野性的な人物を。ところが真山仁はそうしなかった。白石望は苦学して東大法学部に進み、正義感と学問的良心を捨てようとしないナイーブな青年である。「ナイーブ(naive)」という形容詞は褒め言葉ではない。一方の神林裕太は、地方の裕福な旧家に生まれ、「欲しいのは影響力だ」と学生時代から考えているような男である。野心と自己顕示欲だけは人一倍旺盛だ。
政治が停滞し、社会に閉塞感が漂う中、大震災が起きる。そこに救世主のごとく登場したのが宮藤隼人だった。その宮藤を白石望は側近として、神林裕太はジャーナリストとして見つめていく。
望の視点と裕太の視点。視点は常に複数でなければならない。たとえば山で道に迷い現在位置がわからなくなった時、遠くに見える山の方向をコンパスで測定する。このとき、目印の山が一つだけでは位置を特定することができない。別の山の方向を測定し、二つの目印からの角度を地図の上に移してはじめて現在位置がわかる。もっとも、GPSで簡単にわかるようになってしまった現在、こんな三角測量の簡易版のような知恵は必要ないのかもしれないが。それはともかく、小説でも、そして現実社会でも複数の視点による観察は重要で、しかし視点をどう定めるかで事態を正確に把握できるかどうかが決まる。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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