小説を読むということは(あるいは書くということは)、私たちの持っている様々な記憶の中の、言葉で書かれた本や、映画や、町や公園や川や山といった空間で出来た世界の、無数の輝いてざらついていて、しかも平板な断片が、今読んでいる小説と、何枚もの布地(テクスチュアー)としてところどころで縫いあわされ、混りあいつながっていることを(それは、裏返しだったり、重なり具合がずれて、幾重ものヒダになっていたりもする)確認することだ。
私たちは、もちろん、今ここで読んでいる小説(テクストと呼ばれ、批評することが出来ると信じられてもいる)が、単にここにある言葉で書かれた一冊の本(テクスト)として成立しているだけではないことを、よく知っているはずなのだ。
私たちの記憶が、世界と自己の接する時に軋みながらたてる音や響き(世界と君との闘いでは世界を支援せよ、と、カフカは書く)、光や風、声や色、形、匂い、味、手ざわり、皮膚に伝わるなまなましい感触といったものとの邂逅によって、ほとんど不意に立ちあらわれるものである以上、記憶も、そしてなにより小説も、いつだって水のようにあふれる(川の流水や海の波、地下水)他者の浸蝕に接している。
この五つの連作を読む読者は、何かを理由もなく(ただ、読んだというだけで?)手渡されたような気分になる。たとえば、“話者たち”の一人である男の母親が女学生だった頃、田舎の鈍重な小学生たちにいじめられて寒風の中、川に何度も投げこまれている子犬を助け(彼女は橋の上から、小学生めがけて、いきなり自分の乗っていた自転車を投げつけ、子犬から手を離させるのだ)、「濡れた被毛をセーラー服に包んで」家に連れ帰えるのだが、濡れた子犬の被毛と濃紺のサージ織りと呼ばれる毛織の布で出来たセーラー服がチクチクと触れあう湿ったかたまりのようなものの曖昧な痕跡の行方を、時と空間をこえて(往古来今して――)、どうやら生きなければならないらしいのだ。元力士の寡黙な郵便配達人やドバイの超高層ビルの窓ふき人、ハワイの移民、嘘を語りつづける山下清、そういったもの(複数の彼、複数の私)にかこまれて――。
なぜならば、作者である磯﨑憲一郎は、つつましいふてぶてしさで(あるいは、ふてぶてしいつつましさ?)、「あとがき」に「じっさいにはこの連作を書いている最中はただ、段差や転調を作者の意図として書かずにいかに前に進めるか、どこまで小説に忠実でいられるか、だけを考えていたように思う。」と言っているのだから、読者としても「どこまで小説に忠実でいられるか」をめぐって、この小説の、いきなり時代や空間が変り、話者も変る世界に、別の段差や転調を次々と付け加える楽しみとして小説を読むことが、「小説に忠実」であることではないか、と考える。