書評

生(せい)そのものに触れる
恐ろしくも美しい小説

文: 大森 立嗣 (映画監督)

『かなたの子』 (角田光代 著)

「最初どうしてこの映画作りたいと思ったんだっけ」とか、「なんでこんな話にしたんだっけ」と思い返す機会があります。先日舞台挨拶しているときに思ったのはそう言えばここまで5本の長編映画を作って、ある共通点があるなということでした。

 人を生きやすくするために張られた様々な枠の内側が社会というものだとしたら、その外側に身を置く人を描いているのかな、ということです。

 それはこの国の“生き難さ”というものと関係があるような気がします。というのも僕たちがいるところは、さっきも書いたけど様々な枠が張り巡らされていて、そこからこぼれ落ちると異物と見なされ、なかったことのように取り扱われたり、取り除かれます。テレビやネットはその最たるものでしょう。そんなこと声を大にしていっても“今更”って感じは否めないけれど、最近加速度的に進行している気がします。地上波のテレビがつまらなくなっているのは規制が多すぎるからだろうし、インターネットは世界と繋がっていながら、小さなコミュニティをより強固にするために、より利用されているように感じます。そして両者から感じるのは思考停止と歪んだ自己保身です。

 そういえば体罰が全面的に禁止されたけど、頭ごなしに道徳のようなものを振りかざして体罰禁止にしたからって、思考停止に落ちるだけだと思うのです。僕は体罰を奨励しようとなんて全然思っていません。でも禁止してなくなるものでもないことも皆知っているでしょう。

 ものすごく平たく考えると、法律は皆が一緒に生きていく為の便宜的な制度だと思うのです。本当は皆がうまくやっていければ法律は無くてもいいはずですが、実際は難しいのも事実です。だけどもあらゆることを規制して思考停止の状態があまりに増えている気がします。

 映画を作っているとき、道徳とか法律とかに捉われている登場人物がどこか不自由で魅力的でないのです。それよりも葛藤しながら生きることそのものと向きあう登場人物が僕は好きです。

“ふっ”と現実社会の枠から、こぼれ落ちる怖さ、そしてこぼれ落ちてからの人間本来の想い、生きることそのものに触れることで保たれる尊厳、角田光代さんのこの柔らかい言葉で綴られた恐ろしい短編小説集を読んで感じたことです。

【次ページ】

かなたの子
角田光代・著

定価:480円+税 発売日:2013年11月08日

詳しい内容はこちら