脳と精神の物語を、直接脳に流し込まれた気分。
中村文則を語る上で、よく「悪意」という言葉が上がるように思う。
『私の消滅』もまた悪意の連鎖が展開に大きく関わってくるが、それ以前に日常風景レベルで悪意の描写が異様に上手い。
日常生活におけるほんの些細な悪意。
例えば、タバコを道に捨てる人間の悪意。それに対して死ねと思う敵意。クラスメイトの一人が先生に怒られているのを見て図らずも感じた優越感。
そんな普段気にも留めない程度の悪意を丁寧に掬い上げられサラリと並べられようものなら、中村文則の悪意への敏感さやアウトプットの自然さに舌を巻くと同時に、概ね平穏に思われたこれまでの僕の人生も一体どれほどの悪意の中にあったのだろうかと、呑気な思い出への懐疑心もわいてくる。
人の頭はそんな事で揺らいでしまうほど脆い。
少年時代に読書を覚え色々な物語を読むうち、どこかで「脳と精神をめぐる物語」に出会う。
人間の見ている世界の曖昧さを提示され不安になり、精神の危うさを知り怖くなり、脳の謎に興奮する。
こういう感覚を読書でもたらされるのはいわば必須科目だ。
昭和の時代、夢野久作の『ドグラ・マグラ』がそういう読書だったのではないかと思う。
また、島田荘司の『異邦の騎士』が今日まで多くの読者の脳を動揺させたのではないか。
これら不朽の名作に並び、まさに『私の消滅』こそ、これから読書経験を重ねていく次の世代が最初に出会う脳と精神の物語ポジションを奪える作品なのではなかろうか。
しかも簡潔!
脳と精神を物語に用いる上で必要な説得力を充分与えつつ、読んでるこっちまで脳がフラフラ揺さぶられる不気味な感覚、鮮やかな構成。
こんな事が、たった166ページで出来上がってしまったのだから、これから「脳系」のミステリに触れたければ『私の消滅』を読めば良いよ!と思う。
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