デビュー作には、その作家の本質が宿るといわれている。
著者はすでにプロの見事な芸人であり、著作は何作もあるが、本格的な純文学小説としてこれはデビュー作になる。デビュー作、特に冒頭はその作家を見る時重要となる。小説という、自身の内面に向き合う特殊な空間において、書き手が紡ぐ最初の言葉となるからだ。そこにすでに、作家にとって重要な事柄が宿ることが多々あるのである。
この小説は、和太鼓と笛の描写で始まる。何気ない状況描写に見えるが、実際はそうではない。
主人公は花火大会へ向かう人達の前で漫才をしている。つまりその冒頭の和太鼓と笛の音は、彼らの漫才をかき消す音として主人公の前に出現している。自分の夢と存在意義を託し、世界に向けて発する自分の声を、かき消す音。やがて花火が上がる。花火は「人間が生み出した物の中では傑出した壮大さと美しさ」をもつ。素晴らしい自然と花火、それを観る人達。すでに「このような万事整った環境」の中で、彼らは場違いな漫才をしなければならない。
ここに圧倒的な疎外がある。しかも主人公は、観客達の顔に映る花火の色が気になり、漫才中であるのに思わず後ろを振り返り花火を見てしまう。主人公は花火に敵意を感じない。敬意を感じてしまう。人を否応なく惹きつける「花火」という巨大な存在に対して、自己の小さな存在を意識する。つまり大いなるものに対しての憧憬、無力感、そして世界への疎外感から著者の小説は始まっているのである(ちなみに知ってる方も多いと思うが、著者が「ピース」の前に組んでいたコンビ、つまり初めて世に出ようとした時のコンビ名は「線香花火」だった)。このような感情、「コンプレックス」ともいえる世界認識は、あらゆる優れた表現者達が共通して持っているものだ。
圧倒的に巨大な花火によってかき消されてしまった漫才に関する主人公の洞察にも、著者の特徴がすでに現れているように思う。
セキセイインコにある言葉を言われたことを想像し、少しだけ羽を燃やしたくなるかもと思うのだが、すぐインコが可哀想に感じる。これは「優しさ」なのだけど、でもその後「むしろ、ライターで自分の腕を炙った方が火を恐れる動物に激烈な恐怖を与えられるかもしれない」となるのである。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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