書評

服飾探偵の面目躍如

文: 亀和田 武

  ところが英語説もあるというから驚く。礼服に対する市民服、すなわちシヴィル・コート(civil coat)から来ているという説。さらにロンドンの高級洋服店が軒を並べるセイヴィル・ロウ(Savile Row)という通りの名がなまったという異説までがある。

  背広は外来語か日本語か。当然、日本の英語学者たちは「シヴィル派」もしくは「セイヴィル・ロウ派」だ。さらに国語学の権威である新村出(しんむらいずる)までが“セビロの外来語であることは明らか”と断言していて、これも後の研究者に影響を与えたようだ。

  背広探偵の関心はさらにエスカレートして、語源から明治初期の権力闘争にも向かう。明治四年に、従来の正装である衣冠束帯を維持するか、西洋服を採用するかの服装会議が開かれ、意見が対立した。

  西洋服を着たら、西洋に屈することになるという保守派に対して、副島種臣(そえじまたねおみ)が「西洋を制するために西洋服が必要なのだ」と主張した。それまで、じっと黙っていた西郷隆盛(さいごうたかもり)がその直後に「おいどんは副島さんと同意見でごわす」と一言。これでとたんに会議の流れが変わった。ね、面白いでしょ。こんな話を紹介してくれる伯父さんがいるから、世の中は楽しくなる。

  服装会議の決定以降、背広が一気に普及していくわけだが、では初めて背広を着た日本人は誰だったのか。これも諸説あって一人に特定するのはむずかしい。しかし著者はさまざまな資料に当たって、候補を一人に絞りこむ。人物の名前だけではなく、初めて洋服を着た場所と日時まで、慶応三年十一月二十五日、金曜日のパリであったと結論づけてしまうのだ。

  「背広」を定着させ、その普及に決定的な影響を与えたキー・パーソンは福沢諭吉であった。しかし先の服装会議のエピソードからも、西郷隆盛の存在もまた侮れない。西郷の従弟(いとこ)にあたる大山巌(おおやまいわお)は明治三年からヨーロッパに留学している。大山と明治五年にスイスで会ったメーチニコフは「わたしを迎え入れたのは、とびきり洒落たグレーの背広を着こんだ、さほど若くはない紳士だった」とその印象を記している。初めて日本人が洋服を着てからわずか五年後には、本場のフランス人にも「とびきり洒落た」と太鼓判を押されるほどに、日本人の着こなし術はレベルアップしたのだ。

  そしてさらに五年後の明治十年。西南戦争が始まったとき、中央の知識人の中でただ一人、福沢諭吉だけが「西郷は天下の人物なり」と最大級の弁護をしている。洋服と背広の近代史に記された、忘れ難いエピソードだ。明日からも私はお洒落に縁がないままだろう。しかし街を行き交う男たちのスーツやブティックの服には、これまでと異なる視線を向けるに違いない。

福沢諭吉 背広のすすめ
出石 尚三・著

定価:788円(税込)

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