名を呼ぶと,とても遠くにいるようなと青折(あおーれ)がおかしがった.小ごえだったがたしかにそんなふうで,呼んでなにを言おうというのではなく,呼びたかったとても遠い青折(あおーれ)があった.数百にちまえの,たいせつに連れだつつもりでいた青折(あおーれ)だった.
たのめるのは肉の形だけであとはつまらない血脈となみの知能しかもちあわさないとあっさり見とどけているようなのはむしろいさぎよい正確さともいえたが,いっしょにくらしてみるまで,肉へのかかずらいがこれほどのものであり,こちらまでがたえまなくまきこまれようとはおもいおよばないことであった.
肉の形をそこなわないための睡りや食べものや身なりへの細心は,清潔から安楽へ官能の贅へとやみがたくひとつらなりで,しいられる協力は,耐えがたいというよりは耐えてはならないものだった.二重のあらがいに私はたちまち疲れはてたが,青折(あおーれ)はますます多くを求め,やがては私がすすんでそうするようにしつけていけるとさえかんがえているけはいだった.
肉の形がたもてれば私への魅力つまりは支配力もたもてるだろうとおもわせたについては,私にもなかばの責があった.なぜならもしも肉の形に目をひかれなかったらとくにしたしくなろうなどとはしなかったのはあきらかであり,物書きとしての可能性のほうは私の私への言いわけにつとめて買いかぶろうとしたにすぎないと,いまでは青折(あおーれ)じしんうすうすは認めているにちがいないからである.
そしてけっきょくそれはおもいちがいというわけではなく,肉の形が変わったので青折(あおーれ)は力をうしなったのだ.睡りたり養いたりあこがれに身を責めることをやめて,青折(あおーれ)の肉の形はくずれはじめていた.
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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