マルセイユのエッセイもおもしろい。十六歳のとき、その港町で著者は娼館に行く。金髪の女性を膝にのせる。チュッといい音のする頬へのキスと、グジュッといやな音のする頬へのキスをくり返すというエピソード自体がそもそもチャーミングだが、著者はそれを銀座のクラブで思いだすのだ。マルセイユと銀座、現在と遠い過去が、そこに同時に出現する。あっさり。
この本の随所にそれがある。一つの場所に流れている幾つもの時間、その堆積、目には見えなくてもたしかに在るもの。
そのことの美しさを、でもこのひとは美しさのように書いたりしない。当然のように、ついでのように、大切がらないふうに書く。大切がらない、というのが、たぶん大事なのだ。ミニスカートについての所感もおじいさんの思い出も、おなじ風通しのよさで書く。その矜持をなつかしく思うのは、私が昭和の娘だからだろうか。
昭和といえば、ここにはまぎれもなく昭和の夫婦がいる。興味深いのは「オクさん」である。鬼にたとえられたり、イビキについて書かれたり、「私は、よその奥さんは、うちのオクさんよりやさしく、よそのお茶は、うちのよりおいしいと思う」と書かれたりする「オクさん」。きっと、仲のいいご夫婦だったのだろう。大変できた妻だったに違いない。「ヒョウの毛皮」と題された、さるの玩具のエッセイは、とても風変りで味わい深い。
この本に収められた五十四編は、どれも短いし、ある意味でそっけない。けれど一編ずつに手ざわりがあり、奥行があり、含羞がある。スタイリッシュだなあと思う。昭和の娘である私には、このスタイリッシュさもなつかしい。こんなふうに“声”のある文章を書けるひとが、いまどのくらいいるのだろう。いない、ような気がする。いいエッセイというのは話芸ではなく“声”なのだ。このひとがもう亡くなっているということが、奇妙に感じられたのはそのせいだと、ここまで書いて気づいた。読んでいるあいだじゅう“声”を感じていたからで、声といっても、それは無論肉声ではない。目には見えないけれどたしかにそこに在るもの、マルセイユの娼館の金髪女性の唇や、自転車がとびこんだ先の蕎麦屋、あるいはそこで著者が浴びた蕎麦とおなじように、形も温度も質量もあるもの、手でさわれそうに具体的なもの、としての、早川良一郎というひとの、生きた時間と場所と人格そのもの。
思いだした、としか言いようがないのだが、矜持のある作家は昔から、こんなふうに文章で、声を残すことができるのだった。
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