また和宏氏が小学生のころ、よく父のスクーターの後に乗せられて京都から饗庭の実家に墓参りに連れてゆかれ、その途中、琵琶湖西岸の白鬚(しらひげ)神社で休憩したものだと回想し、その神社を歌枕とする例一首として、
引きしほも満ちしほもなき湖(みづうみ)の朱(あけ)の鳥居の漬かりし部分
神谷佳子
を挙げる。この神社の鳥居は岸に近い湖水の中に立ち、その「たゆたゆと」した風情は、「見るものの心を素直に、そして安心させてくれる」と、近江生まれのゆえか、意外なほどに信心も深いこの理学博士はコメントを加えるのだが、『うた紀行』執筆のために久しぶりにこの湖畔の神社に参拝したときには、ここでも裕子夫人が同行していたらしい。「病む妻」を詠んだこの項の和宏氏の反歌は、またも痛々しく胸に迫る。
病む妻の歩みはかなし湖岸(うみぎし)の風は寒しも風に吹かるる
実は平成二十一年(二〇〇九)春の湖東・伊吹山への小旅行の頃から、私の妻もパーキンソン病がすでにかなり進行して「病む妻」となっていたのである。それで『うた紀行』の滋賀の部の枕の歌の数々と、それに対する二歌人の反歌と文章とを読んでゆくと、ことのほか当時の妻の弱々しくなった姿が私の身にも心にもよみがえってきて、私に寄りそい、私に迫ってくるのである。私たち二人は、もちろん永田夫妻のような何に触れても深い詩魂の表現を口にしうるような詩歌の人ではなかった。金婚式も十年ほど前に終えたような末期高齢の老夫婦にすぎなかった。妻の取柄といえば、少しはフランス語のできる、はるか戦前生まれの良妻賢母であった、ということぐらいだったろう。だが、それだけに一層、病んだ老妻の私の腕にとりすがって歩いた姿が、この『京都うた紀行』の一書によって、私の眼の前に、いじらしく、悲しく、いとおしく、浮かんできて離れない。
京都、近江の土地の風光の古きがゆえの美しさ、なつかしさを、少しでも知る人ならば、誰でもこの一書を読んで私と似た思いを抱くにちがいない。そのなつかしさをまだよく知らぬ若い人々にしても、この書によって、ある一つの土地の眺めとその地名、その土地が「昏き器」として宿している人々の暮しの歴史とその歴史のなかに湧き出た古典の詩歌や物語、そしていまその土地に立ちあるいは暮す自分、――それらの間に知らぬ間(ま)に生まれている血のつながり、親密なきづな、深いゆたかな心性の系譜というものを、学び、自覚してゆくのではなかろうか。『京都うた紀行』は、京都が千二百年の古都であり、いまもその歴史に生きる都であるだけに、ひときわ強くこの歴史的存在としての自分、過去があってこその現在の有難さ、というものを私たちに伝えてくれるのだ。
本書のなかの洛中洛外のどの地名を取り上げてみても、みなそうなのだが、例えば上賀茂神社の氏子でもあった私たちにとって一番なつかしい賀茂川――
賀茂川の流せる夏の夕日にて光しだいに弱くなりゆく
初井しづ枝
歌誌『コスモス』の会員だったというこの現代歌人の一首も実に美しい。河野裕子さんが評するとおり、「『賀茂川』が夕日を流すという見方は新鮮」である。私などはこの一首の遠い源流に、「暑き日を海に入れたり最上川」の芭蕉『おくのほそ道』の名句を連想するのだが、滔々たる最上川の原始の力に対して、「光しだいに弱くなりゆく」浅い賀茂川の薄紅(くれない)のきらめきは、たしかに文明の洗練をへてきた古都ならではの水の反映であったろう。私も家の前の土手に立って、幾たびもこの夕映えを運ぶ川の光を見、その音を聞いていたものだった。