大学時代から早や三十年のつきあいになる佐々木敦の美徳とは、当時からすでに境界を易々と超えてみせるそのフットワークの軽さにあった。批評家としての彼がアカデミズムよりもジャーナリズムに近い存在と言えるのも、映画・演劇・小説・思想と領域を次々と転じつつ、遠望するのではなく常に至近距離からそれら作品や言説を生み出す者らを論じる彼の方法ゆえであり、本書が『シチュエーションズ』と単純に複数形であっさり名付けられたのも実に彼らしい。
ゆえに問題は副題〈「以後」をめぐって〉の方になる。「以後」というからにはそこではっきり境界の存在が意識されていると考えても不思議ではない。だがそこにいささか佐々木らしからぬ性急な遠望を予感させはしまいか。
もちろんここで言及される「以後」が3・11を境界としたそれ「以後」の時空であることは言うまでもないだろうし、その時空をいつものようにジャーナリスティックな嗅覚でもって越境し続け、そこで発せられる言葉や行動に至近距離から接し、分析する彼の方法に「以前」と変わるところはないだろう。
だが「以後」という境界線が引かれるかぎり、そこで語られる問題たちはつねにそれによる圧迫的拘束を受けざるを得ない。敏感な佐々木がそのことを自覚しないわけがない。「日本の変わらなさ」を糾弾し続ける『「フクシマ」論』の開沼博によって「以前/以後」の境界が限りなく稀薄であることはすでに織り込み済みだろうし、本書にも登場する劇団地点の三浦基にとっては、たとえ3・11を動機とするイェリネクの戯曲を上演したとしても境界線はあくまでも自分の仕事の内部にしかないはずだ。だからこそ、佐々木は持ち前の脚力であらゆる境界を踏み越えながらさまざまな声を無差別に集める作業に徹し、そこに賛否を唱えようとはしない。そこから何を発見できるか、本書はそのための旅だと感じた。
終幕近く、筆者同様佐々木とは長いつきあいである福島出身の詩人・稲川方人による強い強い言葉が召喚されるとき、ついに佐々木の真意を読み取れる、と書いたら言い過ぎだろうか。しかし、この数年、ただぼんやりと「以後」のことを考えたり、あるいは考えなかったりして、のらりくらりと言及を避けてきた一映画監督にとって、稲川の、ほとんど檄のような言葉をこの旅のとりあえずの結末に持ってきた佐々木の心情を汲まずにはいられない。
筆者にとっても佐々木にとってもこの旅は続く。たぶん終わりはない。
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