東京大学の本郷キャンパス医学部図書館を左手に、東大病院を右手に見ながら龍岡門を入ってそのまま歩を進め、少し脇に入ると、病院側ではあるが患者さんは滅多に現れない、古いレンガ造りの低層の建物がぬっと姿を現す。今はもう別の場所に移ってしまったかもしれないが、かつて私がTMS(経頭蓋磁気刺激法)実験を行っていた研究室はここにあった。患者として外来を訪れた人が目にするであろう、ごく新しい東大病院の様子とは対照的で、薄暗く、黴臭く、どことなく物騒な感じのするところである。本書『幻肢』では、このTMSという技術を主軸にストーリーが展開していく。
本を読むときは解説ページをまず開く、という読者のために、なるべくネタバレをしないよう留意したいとは思うが、きっとできないだろう。本編を読む前に、もしヒントになるようなフレーズをうっかりここで聡明なあなたが読んでしまったとしたら、大変に申し訳ないことだ。あらかじめ謝っておく。ただ個人的には、王道はやはり本編から読むという順序を守る読み方のような気がするし、ネタバレを回避するのもこのように明示しているのであれば書き手よりもむしろ読み手に裁量権があるはず、と思わなくもない。
さて、私がはじめてTMSを体験したのは大学院の一年目の時で、医用工学の研究室で運動野を刺激してもらった時である。外部からの刺激によって、自分の意思とは完全に無関係に自分自身の手指が動く、という現象を目の当たりにし、興奮と共に背筋が寒くなるような思いがした。
博士課程在学中には私もTMSを被験者に適用した。脳科学ではポピュラーな手法といって良いだろう。島田荘司さんは脳科学には深く関心を寄せられており、本書以外にもロボトミーを扱った『溺れる人魚』などの作品を上梓されている。そもそも探偵・御手洗潔が脳科学者である/になった(『ネジ式ザゼツキー』以降?)という設定にもそのことが端的に表れていると言えよう。
TMSだが、実際に受けてみると、さほど気分がいいものとはいえない。刺激のたびにパチンパチンと音が鳴るので本当にこんなに刺激を入れてニューロンは大丈夫なのかと不安を誘うし、特に側頭葉を刺激する際には、頭蓋を覆う筋肉にまで刺激が入ってしまうので、側頭筋が刺激のたびにピクピクと動いていやな感じだ。昨今、テレビショッピングなどで見かける、腹に着けるだけで腹筋が六つに割れるという触れ込みの黒いデバイスのような、と言えば伝わるだろうか。筋肉が自分の制御下に置かれず、勝手にピクピクするというのはやはり違和感があり、薄気味悪い。
本書で用いられている手法は、子細を記せば高頻度rTMS(反復経頭蓋磁気刺激法)といい、1秒間に10~20回程度の反復刺激を標的部位(本書ではLeft DLPFC〔左背外側前頭前野〕)に対して与え、当該部位を興奮性に刺激することでうつ病の治療を試みる、というものだ。薬物治療抵抗性を示す患者が3分の1いるといううつ病の現状をみれば、TMSは福音ともいえる画期的な治療法のように思われるが、治療効果におけるドーパミン系やオピオイド系の賦活(プラセボ効果)をどう評価するのかという課題も現実的にはある。
ともあれ『幻肢』では、TMSを使ってうつ病の治療が進められていく。その途中で、医学的知識を持つ主人公は、あろうことか自分で刺激部位を調節して、自らが失った認知の一部である恋人の幻を見ようとするのである(これはたいへん危険なので真似してはいけません)。
その研究室ごとの流儀や、設備の違いもあるだろうから一概には言えないが、通常はナビゲーションシステムと、被験者の脳の三次元MRI画像を使って刺激位置をピンポイントで特定する。そもそも物語に出てくるように被験者が自ら刺激部位を調節してシルヴィウス溝に当てるというのはかなり困難ではないかと思う。ここがシルヴィウス溝、というのは外からは視認することができず、当たっていてもその確認ができないためである。
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