危険である、というのは、てんかん発作を誘発するおそれがあるためで、けいれんを起こしているなら尚更、TMSを適用するにあたっては慎重を期さなければならない。
現在はTMSに加えてtDCS(経頭蓋直流刺激)という手法が開発され、脳に電気的・磁気的な刺激を精度よく与えることで、大脳皮質を賦活させたり活動を抑制したりと、局所的にその興奮性を長期間、可逆的に調節できる可能性が示されている。数学の能力をアップさせることができる、などとして話題になり、それらしきデバイスが出回ったりしたのだが、これも効果が出るような高出力の刺激をむやみに脳に与えるリスクが専門家の監督下以外で取られてしまうことに私自身は危機感を覚えているということを念のため付記しておく。
しかしながら、既に現実には失われてしまった相手に会える、約束していたのに実現しなかった未来、もう手の届かない過去に、もし触れることができるとしたら、それが自分の脳の創り出した虚構であったとしても、何としても触れたい、と人間は願うものなのだろうとも思う。『幻肢』は実にさわやかなエンディングを迎えるのだが、もし私が結末をつけるとしたら、こんなに美しくはできないかもしれない。
失われたその人にもう一度だけでいいから会いたい……。そんなささやかな願いが、たとえ幻であったとしても一緒にいたい、という強い欲求に変わり、どんな犠牲を払ってでも、たとえ命が失われても共にありたい、という狂気じみた渇望に変化していく。その過程がシームレスに移行していればいるほど、面白い。実生活上、そうした相手と関わっていくのは非常に困難だが、ケーススタディや創作であれば、客観的にその過程を追うことができ、そのプロセスはある種の知的好奇心を満足させる。
人間はしばしば何かに惑溺し、最終的に心を壊してしまうことがある。遺伝的な要素や、回避し得なかった環境要因ももちろん加味しなければならないが、その原因の多くの部分を占めるのは、その人を取り巻く人間との関係性である。薬物を使うわけでもなく、外科的な処置を加えたわけでもなく、磁気刺激を与えたわけでもないのに、自然に狂気に至る。大っぴらには言いにくいが、そこにアートを感じてしまう。
ところで、作中、天才たちの多くが偏頭痛持ちであったことが語られる。錚々たる天才の名が列挙されるので読んでいて何とも恥ずかしいが、私もかなり年季の入ったひどい偏頭痛持ちなのだ……。IQがちょっとばかり高く、勉強が多少できたくらいで、特に特殊能力はないのだが、小学校高学年の頃から悩まされている。いまも発作が起きたときのための薬を常に携行している。薬がなくなるとあの苦しみがいつやって来るかと不安になり、気持ちがささくれ立ってしまう。生理周期に応じた発作と、気圧の変化に感じて誘発される発作があるので、頻度は高く、天気の変わりやすい季節は地獄の苦しみである。年間を通じて気圧が高く安定しており、酸素濃度も高い死海地方に移住したいと、半ば本気で考えたこともあるくらいだ。
側頭葉てんかんの既往歴は私自身にはないが、家系を辿ると神職であった人がいるようで、ひょっとすると、その人に何らかの徴候があった可能性はある。幻聴、幻視を体験しやすい人というのはしばしばいて、この人たちを巫女、巫覡(ふげき)とし、かつては祭祀が行われるときにその幻覚が利用され、集団の意思統一が図られた、ということもあっただろう。
現代の都市社会における祭礼はすでに形式的なものになり、そうした機能は薄らいでいるが、また違った側面から同じ構造が創出されつつある。例えば、やはり側頭葉に変調をきたす統合失調症の患者が描出するアート空間が社会的に受容され、影響を与えるという現象を、その一つと捉えて分析することもできるだろう。
幻の存在を大衆が必要とし、なにかを癒そうとしているのではないか……。文芸を含めたアート全般にそうした役割があるのかもしれない。人間が感じているファントムペインを癒すための装置の一つとして、本書を楽しむという読み方も面白いだろうと思う。
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