ありとあらゆる想像を膨らませていたマチルダだったが、現実は、そのどれとも違っていた。
呼び鈴を押せど鳴らせど誰も出ない。ドアには鍵がかかっており、明かりは消えていて、物音ひとつしなかった。明らかに留守だった。一体どういうこと? 電話で今日行くと約束したし、時間もぴったりだ。マチルダは仕方なく、玄関のポーチに腰掛けて待つことにした。
以前住んでいた家とは違う、小さな家だった。赤い煉瓦造りの壁と白いスレート屋根、二階はないが地下室があり、玄関ポーチから二段下がったところに鉄扉が二枚、設えてある。隣家との間に大きなカラマツが生えていて、日光を遮り、庭はじめじめしていた。芝生は育ちが悪く、プランターの花も咲いていない。
マチルダは膝に頬杖して、待った。半日かかった旅の疲れがまぶたを重くし、ついうとうとと船を漕ぎながら。
「風邪を引くわよ」
声をかけられて慌てて飛び起きると、目の前に母、エミーがいた。髪には白髪がまじり、しわが増え、肌もかなりたるんでいたが、間違いなく母だった。母の後ろから、更に痩せて小柄になった父が、スーパーの紙袋を片手に抱えて現れた。ジョーはマチルダに小さく頷きかけると、スーツケースを持って家の中へ入っていく。
マチルダが出て行った後、両親が買った知らない家だ。それでもほんの一瞬、マチルダは子ども部屋のにおいを嗅いだ気がした。
十一年の間にあったことはすべて長い長い夢だ。昨日両親におやすみを言ってベッドに入り、今し方目が覚めたばかりで、時計を見ればたったの十時間しか経っていない。
だがすぐに正気に戻る。ここは思い出の場所でもなければ、母の笑顔もどこかぎこちなく、よそよそしさがあり、十一年という時間は間違いなく過ぎてしまったのだと気づく。
「お昼は食べたの?」
「ええっと……実は食べてないの。乗り継ぎ時間に余裕がなくて」
「そう。じゃあ軽く胃に入れた方がいいわね。お茶にするから待ってなさい」
母が微笑み、マチルダも微笑む。自分がうまく笑えているかはわからない。
外観もこぢんまりした家だが、内装も質素だった。カーペットは見覚えのない芥子色だが、ソファはよく知っている。窓にかかったレースのカーテンからやわらかな陽が差し込み、小さなチェストの上のラジオに光がゆらゆらと揺れた。ラジオは古めかしい木製で、マチルダが赤ん坊の頃から知っている。周波数を合わせるダイヤルの黒いつまみはくりっとした眼のようで、頭に扇形の周波数計をつけ、耳のスピーカーから音楽やニュースを流してくれる、いい子だ。マチルダはそっとラジオの頭を撫でた。
リーヴがロサンゼルスの家に帰ってこなくなって、間もなく一年が経つ。マチルダはひとりでも寂しくないと豪語し続けたが、母への手紙には「近いうちに帰ってもいい?」と書いて送った。今後、誰かと暮らしたいとは特に思わないし、これを機に両親と暮らすつもりもない。ただ、自分は誰から見放されていて、誰なら心を許せるのか、見極めたかった。
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