- 2017.11.27
- 書評
近未来を舞台に描かれた、「成長」というテーマをからめた、堂々たるファンタジー
文:金原 瑞人 (法政大学教授・翻訳家)
『ほんとうの花を見せにきた』(桜庭一樹 著)
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
これに続く「ほんとうの花を見せにきた」は、その後日談で、はぐれバンブー茉莉花と、梗が一時預かっていた桃という少女の物語になっている。これもまた桃の成長と自我の目ざめ、そして別れ、さらに……という展開で、ふたりのキャラも立っているうえに、必要最低限のロマンチシズムが漂っているところが素晴らしい。
最後の「あなたが未来の国に行く」は一気に過去にもどって、中国の奥地に平和に暮らしていたバンブー族の国を襲った悲劇と、その悲劇からかろうじて逃げおおせたバンブー族の旅立ちが描かれる。この短編は、姉の死を契機に大きく成長せざるをえなかったバンブー族の王子、類類の決意とともに終わる。本を閉じた瞬間、読者は、「ちいさな焦げた顔」に、類類と、赤い表紙の詩集を持った青年が登場したことをあざやかに思い出すことだろう。
近未来を舞台に描かれた、「成長」というテーマをからめた、堂々たるファンタジーだ。
しかし、この人がこんな王道のファンタジーを書いていいのかという疑問が頭をもたげてくる。
いままでの桜庭一樹作品を思い返してみて、圧倒的な存在感があるのは物騒なリアリズム小説だ。「赤朽葉家」三代記を皮切りに、たとえば、娘と父親が抱き合い、おたがいのうつろな胸をえぐりながら、人を殺していく『私の男』。たとえば、母親からしじゅう折檻され続けながらも、母親をかばい、守ろうとし、母親にとっての「サンドバッグ」になろうとして、狂気を生き延びる少女を描いた『ファミリーポートレイト』。また最近の『じごくゆきっ』の最初の短編「暴君」と最後の短編「脂肪遊戯」。どれもリアリズム小説とはいえ、狂気との狭間を突っ走るような作品ばかりだ。その容赦のない書きっぷりが、そして考えてみれば、その多くが、ある意味、成長の物語で、苦しく、苦々しい。「脂肪遊戯」の締めくくりの言葉はこうだ。
「あの子は痩せて、ぼくは忙しくなって、そうしてぼくたちはゆらりと悪い夢から醒めるように大人になる」
そんな若者たちを描く桜庭作品は、いまの日本の小説界にとってかけがえのないものになりつつある。「書く獣」である彼女が、こんなファンタジーを?……と思ってはみたのだが、そんな考えはすぐに吹き飛んでしまった。ここまでストイックな物語を、センチメンタリズムもロマンチシズムも必要最小限におさえつつ、不穏な死と影をちらつかせながら、最後は強引に王道的ロマンスの形にはめてしまったこの作品の魅力に、恥ずかしながら屈してしまったらしい。なにより、バンブー族というオリエンタルな種族が生まれた。これが桜庭作品の新しいスタイルであり、これからの大きな可能性を秘めていることはまちがいない。
直木賞授賞式の言葉はいまでもよく覚えている。
「わたしは小説によって、まだ、誰にも単語にされていないけれども今を生きる人みんなが本当はわかっていること、気づいていること、それを小説にして、名前をつけていくようなことをしたい、と思ってきました」
そして『少女七竈と七人の可愛そうな大人』『赤朽葉家の伝説』『私の男』の例をあげて、こうまとめている。
「私は作家としてこれからも、なにかをみつけては、指をさし、あなたがたに小声で名前をつけていきたいと考えています」
その言葉の通り、作者はまたひとつ、「なにか」をみつけ、それをこういう形にしてみせてくれた。ファンとしてこれほどうれしいことはない。