- 2017.11.27
- 書評
英雄を一刀両断する数々の評言が、塩野七生の「女の肖像」を浮き彫りにする
文:楠木 建 (経営学者・一橋大学大学院国際企業戦略研究科教授)
『男の肖像』(塩野七生 著)
ジャンル :
#ノンフィクション
もちろん作家は誰しも対象にのめり込む。国民的歴史小説家である司馬?太郎の一連の作品があれほど多くの人を魅了したのも、司馬が対象に徹底的にコミットしたからこそである。
しかし、塩野七生はのめりこみ方が違う。これにしても程度問題としての違いではない。対象へと入っていくスタイルが違うのである。
司馬は対象をありとあらゆる角度から俯瞰し、全体像をつかみ、歴史を「見てきたように」書く。『坂の上の雲』を読んでいると、まるでその時代に居合わせて、特等席で日本海海戦の大パノラマを観ている気分にさせられる。
歴史の現場に読者を連れて行ってくれるところまでは塩野七生も同じだが、彼女の場合は対象を客観的に俯瞰しているというよりも、彼女自身が同時代人で、対象と同じ世間を共有し、そのすぐ傍らにいる感じがする。「見てきたように」というよりも、日常的に「つきあっている」ように書く。ここに著者に独自のスタイルがある。読者からしてみれば著者に友人を紹介されるようなもので、登場する歴史的人物と自然とおつき合いができる。
ペリクレスの章で先に引用した部分の続きである。
それからほぼ十年して、彼と再会した。イタリアへ行った私は、ローマのヴァティカン美術館を観(み)てまわっていて、部屋のひとすみに置かれてある大理石の胸像の前で、ふと足が止まったのだ。どこかで見た顔だ、と思った。胸像の下にきざまれたギリシア名は、ギリシア語の不得手な私にも読める。あら、お久しぶり、というのが正直な感想だった。
大カトーについての章の書き出し。
こんな男を亭主にもったら、毎日が息がつまるような生活ではないかと思う。また、隣り近所にいられるだけでも、神経が休まらないにちがいない。友人としても、いやはやなんとも、敬遠の関係ぐらいにしておいたほうが無難である。
ペリクレスも大カトーも紀元前の地中海世界に生きた歴史的大人物だが、著者にしてみれば「あら、お久しぶり」と再会する相手であったり、どうにも気が合わない隣人なのである。
本書を読んで、この独特のスタイルの起源が芥川龍之介の慧眼にあったことを知った。地中海の歴史世界にのめり込む以前、著者が夢中になったのは芥川だったという。彼はこう言う。例えば作者自身が和泉式部の友達であるかのようにその時代を虚心平気に書き上げる。こうしたタイプの歴史小説は読者が現代の人間や社会に引きつけて読み取りやすく、示唆的であるはずだ。ところがそういう歴史小説が日本にはない。この新機軸に挑戦する若手はいないものか─。
これに呼応したのが若き日の塩野七生その人だった。芥川が著者を夢中にさせてくれなければ、著者の独特なスタイルによる歴史小説もありえなかったのかもしれない。だとすれば、芥川龍之介に感謝の意を表したい。
歴史上の人物と時空間を共有しているかのように向き合い、虚心平気につき合う。その結果、「歴史上の人物は皆、私の知り合いになってしまった。いや、イイ男だったら、皆、愛人にしてしまった」。
塩野七生のスタイルの真骨頂は、ユリウス・カエサルについての章だろう。カエサルは地中海世界の歴史のなかで、もっとも著者を魅了した人物の一人である。この章はカエサルが愛人であるクレオパトラに宛てて書いた手紙の形式をとる。著者は自分をクレオパトラに仮託して、カエサルと対話している。ようするに、著者一流のイマジネーションでカエサルと「ひとり脳内文通」をしているのである。
恋文であるだけにその内容は徹底的に主観的で感覚的で情緒的でパーソナル。歴史教科書的なファクトの記述はほとんどない。それなのに、いや、だからこそ、ごく短い文章でカエサルの類稀な指導者の資質と力量、人間的魅力、さらには時代を超えた成熟した男女のあるべき関係の姿まで鮮烈に描き出すことに成功している。
ペリクレスの章にしても、その端正な美貌と不恰好な「玉ねぎ頭」のアンバランスに思わず笑ったという極私的な経験を基点に置き、そこから都市国家アテネの政治体制と政治指導力の本質を鮮やかに浮かび上がらせる。パーソナルで感覚的な断片から、古今東西変わらない人と人の世についての普遍的な洞察を引き出す。この辺、著者の独壇場であり、余人をもって代え難い味わいがある。
これと反対に、個人的に好きでなかったり、関心を持てない人物─アレクサンダー大王やナポレオンや毛沢東─が相手になると記述のトーンもとたんにあっさりとしてくる。はっきりと態度が異なり、それが文章にも表れる。このギャップが面白い。しかも、距離を置いたような文章がまたその人の本質を見事に切り取ってみせてくれる。
歴史に対してストレートに主観的・感覚的な構えを取る。対象に対する好き嫌いを全開にする。そうした書き手を塩野七生以外に知らない。ファクトの集積であり、ある種の「公共財」である歴史に対してそのような姿勢を取るのは一般に憚られる。下手をすれば独善に陥り、読者が背をむけるというリスクがある。だから多くの作家は多少なりとも客観的で距離を置いたスタンスを取る。
しかし、そこはさすがに塩野七生。この人がすぱっと言えば、なぜか自然と腑に落ちる。文章を通じて伝わってくる著者の人間的魅力のなせる業としか言いようがない。普通の書き手が著者のスタイルを模倣しても決して上手くいかないだろう。仮に同じことを言ったとしても、塩野七生が言うからこそ読者の心に響くという面がある。
西郷隆盛の章にこういう一節がある。
男には、その生涯にどれほどの仕事をしたかによって存在理由を獲得する型の人物がいる。また別に、彼が存在すること自体に意味があり、それがその男の存在理由の最たるものになっている型の人物がいる。
西郷隆盛は後者の典型であった。塩野七生は男ではないし、これまでになした仕事も錚々たるものがある。しかし、彼女も西郷と同じように後者のタイプであるように思う。そのキャラクターと存在感がものを言う数少ない作家である。
他者とディファレントになりうるのは、そこにトレードオフがあるからである。男であれば女ではない。北に向かえば南には行けない。トレードオフにこそ独自性の基盤がある。どちらかに軸足をはっきりと置くからこそ独自性も際立つ。
「何をするか」を決めるのが戦略ではない。「何をしないか」を決める、ここに戦略的意思決定の正体がある。北に行こうというのではなく、南には「行かない」。このトレードオフの選択があってこそディファレントになり得る。
作家のオリジナリティは、そこに何が書いてあるかよりも、何が書かれていないかに如実に現れる。本書にある14人の男について何が書かれていないか、改めて味わってほしい。時代背景やその人物のなしたことについてのファクトの記述は最小限に抑えられている。塩野七生とその人物との「おつき合い」の成り行きとその印象、そこで触発された自由な思考に大半のページが割かれている。
塩野七生の代表作である『海の都の物語』『ローマ人の物語』のような大長編が長く読み継がれる歴史小説の傑作であることは言うまでもない。しかし、量的制約が厳しいほどトレードオフも明確になり、したがって作者の独自性も鮮明に出てくる。本書のような短い随筆には、著者ならではの唯一無二の滋味が溢れている。塩野七生という女の肖像を鑑賞するに格好の一冊である。
-
『リーダーの言葉力』文藝春秋・編
ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。
応募期間 2024/12/17~2024/12/24 賞品 『リーダーの言葉力』文藝春秋・編 5名様 ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。